最初に見えたのは、白い天井だった。
 四角い蛍光灯が眩しい。 辺りを見回しても誰もいない。
 少し身を起こすと入り口から誰かが入ってきた。
「おや、目が醒めましたか」
 眼鏡を掛け、白衣をまとった医師が私に近づく。
 私は思わず毛布を胸元に引き寄せる。
「そんなに警戒しないでください。先日お会いしたでしょう。改めて自己紹介させて頂きます。ここの院長をしております入江京介と申します。以後、お見知り おきを」
 先生はそう言うとぺこりと頭を下げた。
 突然の自己紹介に私は思わず目がテンになる。
 いや、それにしても・・・なんだろう、酷く頭が混乱している。
「ひかりさん・・・・・・、貴女は助かったんですよ」
「たす・・・・・・かった?」
「ええ、驚きましたよ、後原君から電話が掛かって来た時は」
 後原・・・?
「あの・・・・・・すいません」
「はい、どうしました? 腕、痛みますか?」
「えっと・・・その・・・・・・ここはどこですか?」
「・・・・・・・・・ここは、入江診療所ですよ」
 男・・・確か入江さん、だっけ・・・が少し間を空けて答えた。
 更に私はもう一つ質問をすることにした。どうしても気になる、その疑問を。
「・・・・・・私は・・・・・・誰ですか?」
 言った瞬間、先生の目が大きく見開かれた。信じられないと言ったような、そんな顔を。
「ひかりさん・・・・・・記憶が――――――」
 ひかり、それが私の名前なのだろうか。
 何も、何も思い出せない。
 名前も、生まれた土地も、家族も、友達のことも、何もかも全て。

 まるで世界中から仲間外れにされたような、そんな感覚に陥ったみたいだった。










「なん・・・・・・ですって?」
 ひかりのいる病室の扉の前。
 入江先生から告げられた言葉に、俺はショックを隠せないでいた。
 ――――記憶喪失。
 ひかりは自分の名前はおろか、何もかも思い出せないと言う。
「リストカットが原因とは思えません。恐らく、リストカットをせざるをえない状況に精神的に追い詰められていたのでしょう・・・・・・」
「俺のせいだ・・・・・・」
「後原さん、貴方の所為ではありません」
「違う、俺だ! 俺の所為なんだ!! あいつは誰よりも何よりも俺に嫌われるのを恐れてた筈なのに!」
「後原さん・・・・・・」
「入江先生、ひかりを、妹を助けてください! 例え血が繋がって無くても、俺にとっては大切な妹なんだ!」
 俺は入江先生の両肩を掴み、必死になって懇願する。目にはいつしか涙が溜まっていた。
 その時、背後から音がした。
 そこには、部活メンバーである圭一、レナ、魅音、沙都子、梨花がいた。
 5人とも、なんか思いつめたような顔をしている。ああそうか、さっきの俺の言葉、聞いてしまったのか。
「少し場所を移そう。話したいことが・・・・・・あるんだ」
 俺はそれだけ言うと、入江診療所を後にした。ひかりの事も気になるが、今はとても会いにいける状態ではない。もう少し、心の準備が必要だ。



 ―――――で、どう言うわけか俺達は魅音の屋敷にいる。

『どうせならうちでお茶でも飲みながら話そうよ』

 と言う魅音の計らいである。
 全く、これから深刻な話をするかも知れないってのに。
 いや、どんな話だろうと覚悟してのことなのかも知れないが。

「さて、どこから話したものかな・・・・・・」
 俺は座布団に正座で腰掛けながら、思案する。
 魅音は机をはさんで俺の真正面。その隣にレナ。
 俺から見て左の方に沙都子、その隣に梨花が座っている。
 圭一は俺の隣だ。
「取り敢えず、お前とひかりの関係について、詳しく教えてくれ」
 圭一が俺の目を見てまっすぐ問い掛けてきた。
 俺は頷くと、少しずつ、ゆっくりと話し始めた。

 ひかりは、今の母親の連れ子で俺の父親と再婚して義理の妹になったことを。

「まぁ俺は再婚に反対してたわけじゃないが、あの頃は大変だったんだぞ」
 
 今でこそ笑い話だが、実際は笑えない。
 


 ――――――1年前。

 父親が、新しい女性と再婚した。
 その新しい母親となる女性(ひと)が連れてきた子に、俺は最初見惚れたものだ。
 別に女子に面識無いわけでも、苦手と言うわけでもない。
 だけど彼女は、凄く可愛かったのだ。
 だけど、そんな俺の一目ぼれは見事に次の瞬間崩れることになる。

「死■」

 なんと言うか、その一言を聞いた瞬間俺の中のガラスのハートがゴ●ディオンハンマーでブロークンされた感じだった。勿論、欠片一つ残らず光にされて。
 そう、ほんの数秒で彼女の印象が「可愛い」から「怖い」に変わったのだ。
 だけど、それは恐怖の、ほんの始まりに過ぎなかった。

 ほんと、今でこそ良く生きていたなぁと思うんだ。
 最初はワザと水をぶっ掛けられる、ノートにラクガキされる。シャーペン壊される、くらいだった。
 それくらいなら可愛いものだ。だけど終いには靴に大量の画鋲をセッティングされたり、階段から突き落とされかけたり、包丁を投げられたりした。
 その時、彼女は決まって「■ネ」と言うんだ。何度も何度も、まるで何かに取り憑かれたかのように。

 どうして俺を殺そうとするのか、俺は訳が解らなかった。
 折角兄妹になれたのに、どうして分かり合えないのか。
 何度も何度も、彼女に殺されかけた。理由を聞こうとしても、話もさせてくれなかった。

 
 そんな状況が1年ほど続いたある日、ひかりが熱を出した。
 40度の高熱だった。しかもそんな日に限って父も母も出かけてて家は俺と病人であるひかりだけだった。
『俺が、なんとかしなきゃ』
 そう思った俺は、ひかりの看病をすることにした。
 だけど、俺一人ではどうにも出来なかった。母に連絡をいれると、ひかりのことを心配にそうにして、だけど俺に看病の仕方とかを細かく教えてくれた。母が 帰ってくるまでの間、俺がひかりのことを看てやれるように。
 元々料理は得意だったので病人食を作るのには慣れていた。
 俺はタオルを取り替えたりお粥を食べさせたりしながら、ひかりの熱が下がるのを待った。
 そしてひかりは、その日初めて、あの2文字以外の台詞を吐いた。
「どうして・・・?」
 それは、疑問だった。
「どうして、ここまでしてくれるの。私、アナタを殺そうとしたのに」
 弱った体で、必死にそう訊いてくるひかり。
 俺は、疑問を疑問で返していた。
「お前こそ、どうして俺を殺そうとなんかするんだよ」
「そ、それは・・・・・・ 怖かったの」
「怖い?」
「・・・・・・今のお父さんは、お母さんが選んだ人だから・・・信用できないけど、信じようと思った。だけど、貴方は違う。もしかしたら何かこの家を脅か すかも知れない。お母さんに酷いことするかも知れない。そう思ったら怖くなって―――――――それで」
「そっか・・・そうなんだ」
 俺はそれ聞いて、どう思ったんだっけかな。
 こいつは、ひかりは、他のことが信用出来ないんだなってことは漠然に思った。
「貴方は・・・どうして、そこまでしてくれるの?」
 だけど、例えひかりが誰も信じられないとしても。
 そんなの、決まっている。
 たとえどんなに嫌われようと、たとえどんなに殺されかけようと。どんなに信じられないだろうと。
「俺はお前の兄貴だ。それ以外、理由は無い」
 俺はそれだけはっきり言うとタオルを取りかえようと手を伸ばした。
 瞬間、ひかりの手が俺の手に触れた。まるで包み込むように。
「貴方は・・・・・・私を裏切ったりしない?」
「当り前だ」
 手を握る。自然と力が篭る。
 温かい、なんて温かいんだ。そして、なんて華奢な体なんだろう。
「決めた。俺はお前を守る。お前がどんなに嫌がろうと、俺はお前を守るって決めたかららな」
「あなたを殺そうとしている人を守ろうなんて、ヘンなの」
 ひかりは、くすっと噴出した。
「いいだろ別に。兄貴は妹を守るものなんだよ!」
「ありがとう・・・・・・・・・それから――― ごめんなさい」
「気にするな。もう、過ぎたことだ」
 俺はクシャっとひかりの頭をなでる。
「まだ熱下がっていないんだ。とっとと寝ろ。ずっといてやるから」

 ひかりはこくんと頷くと布団に潜った。ほどなくして静かな吐息が聞こえ始めてきた。
 俺はいつまでもいつまでも、ひかりの頭をなでていた。


 


 10


 話終えると、辺りは夕暮れになっていた。
 ひぐらしの鳴き声が部屋に響く。
「そんなことがあったのか」
 圭一が、しんみりした口調で言う。
「けどどうしてひかりちゃん、人が信用出来ないんだろ・・・だろ」
「多分それは、あいつの前の父親が関係しているんだと思う」
 
 ひかりの前の父親は借金を作り、幸せだった一家を破壊した。折角幸せだったのに、全て無駄にされた。その時のショックが、あいつに少なからず疑心暗鬼の 種に芽が出たのだろう。

「悲しいね、とても。誰も彼も信じられなくなった気持ち、レナ少しだけど解るかな。レナね、誰も信じられなくなって、最後は皆に酷いことする夢を見るの。 学校中にガソリン撒いて、篭城して・・・・・・思い出すだけでも辛い、夢」
「それなら俺もあるぞ。ある日を堺に誰も信じられなくなって孤立しちまうんだ。そしてついには・・・・・・魅音とレナを・・・・・・この手で殺しちまう。 変だよな、夢のはずなのに、まるでほんとにあったみたいに思えるなんてさ」
「うん、レナもだよ。夢に見たあとは必ず涙を流しているの」

 二人の話は、本当なら「まさか」と笑い飛ばすものかも知れない。
 だけどそんなこと、俺には出来ない。出来るわけが無い。だって、二人が話した話が夢であれ現実であれ、何か大切なことを言おうとしているのは伝わってく るからだ。

「浩二、もしひかりが全てを思い出したら伝えて欲しいのです」
 梨花が、普段とは違う大人びた表情と声で、俺に言う。
「何だ?」
「決して、人を疑わないこと。皆、あなたのことを想ってくれていると言うことを」
「・・・・・・解った、必ず伝える」
「大丈夫なのです。ひかりはきっと元気になるですよ、にぱー☆」
「梨花の言うとおりですわ! それにまだひかりさんには私のトラップをお見舞いしてないですしねー!」
「はは、お手柔らかに頼みよ」
 おーほほほと高笑いする沙都子に、俺は苦笑するしかない。
「勿論、その時は浩二さんもご一緒ですわ!♪」
 げ、それは勘弁して欲しい。

 それから、少しの時間が経った。

 俺は静かに立ち上がるとひかりの様子を見てくる、と言い、部屋を出た。
 途中、魅音に案内されながら。



 外に出ると寄り一層ひぐらしの鳴き声が耳に響いた。
 入江診療所への道を歩きながら、俺はこれまでのこと、そしてこれからのことを考えていた。

 入江診療所につくと、見慣れぬ人物が立っていた。
 黒いYシャツに赤いネクタイをした大柄な男性で、見るからに怪しい雰囲気がバリバリ出ていた。
 あんなのに関わったらろくなことにはならないだろう。
 俺は男を無視して病院内に入ろうとした。 ――が。
「後原浩二さんですねぇ」
 まるで地の底を這うかのような不気味な声に俺は戦慄した。
「あの・・・・・・貴方は?」
 俺はおそるおそる相手の顔をうかがう。
「申し遅れました。私、興宮署の大石蔵人と申します。んっふっふ」
 刑事の人が・・・なんでここにいるんだろうか。
「はぁ、どうも」
「ところで後原さん、少しお話良いですか?」
「お話ってなんですか。貴方とは初対面ですから話すことなんてないと思いますが」
「まぁまぁそう邪険になさらずに」
 そう言うと大石さんは懐から一枚の写真を取り出した。
 眼鏡を掛けて帽子をかぶった、少し屈強な男の写真を・・・って、まて。
「彼、見覚えありません?」
 見覚えあるもなにも、ありまくりだ。
「富竹さんが、どうしたんですか」
「先日、富竹さんがお亡くなりになられました」

 ―――― なんだって?

 トミタケサンガ、ナクナッタ?

「一体、どう言うことですか?」
「ここで話すのもあれです。車とめてあるのでそこで話しましょう。んっふっふっふ」
 そう言うと大石さんはずんずんと歩きはじめる。仕方なく俺は言う通りにすることにした。
 それに、富竹さんがどうして亡くなったのかも気になるからだ。