三章構成(第1章、第3章は万事屋編、第2章は3Z編)です。
ハッピーエンドはお約束します。
こちらのサンプルは、第2章から抜粋しています。
はじまりと同時に、おわりを告げられた恋だった。
学び舎に聞こえる小鳥の声に、窓の外に広がる青空を思い出す。
陽の光を受けたカーテンが、窓際で気持ちよさそうに揺れる、午後のホームルームの時間。
教壇に立つ教師から目を背け、窓外へと視線を送っている間に、一枚の白い紙が配られてきた。
用紙を裏返すと、進路希望調査、の文字。
それに重なる教師の声。
「全員に届いたか? 読めばわかると思うけど、進路希望調査だ。第一希望から第三希望まで書いて、今週中に提出な」
後ろの席からは、床が椅子に擦られる音。
「先生! またですか?」
「何だ、覚えてたのか。こういうのは学期毎に調査しなきゃなんねーんだ。希望が変わってる奴がいるかもしれねーからな」
以前、進路希望調査の用紙を提出したことは、神楽も覚えていた。
学年が上がり、学年を書く欄に「三年」と書くことに違和感を覚えなくなった頃。進路希望調査と書かれた用紙を渡されたのだ。
教師は『俺しか見ねーから、正直に書けよ』と言った。その言葉に背中を押されるようにして、シャープペンシルをそこに走らせた。
はじめての恋に、現をかえりみなかった神楽は、希望という名の白紙に、想いを乗せた。
"第一希望 銀八先生のお嫁さん"
"第二希望 銀八先生のお嫁さん"
"第三希望 銀八先生のお嫁さん"
提出するのと同時に、神楽は職員室に呼び出された。彼の冷ややかな目を、負けじと見つめ返した。
銀八は『真剣に考えろ』と言った。神楽は『真剣に考えたアル!』と答えた。
溜息を吐いた彼は、受け取ったばかりの紙を、神楽に返そうとした。
子供に現実を手渡すときの大人は、こういう顔をするのだろうと神楽は思った。
教師の顔を見ていられず、床へと視線を落とし、そこに見つけた小さな傷に涙を落としそうになった。
『もう一度、ちゃんと考え直せ』
『…………』
神楽は左右に首を振った。床の傷は見えなくなり、自分の書いた拙い文字がぼんやりとかすんで見えた。
『俺とお前は、教師と生徒だ』
彼の声は、事実だけを告げた。感情のない声は、作り物だとすぐにわかった。顔を上げると、彼の眼鏡の奥にある瞳が、わずかに揺れ動いた。
小さく湧いた疑問は、胸の内ですぐに大きく膨らんだ。
『それだけ?』声が上擦り、もう一度言わなければならなくなった。『それだけアルか?』
『……充分だろ』
彼の気持ちをきく権利すら与えてはもらえなかった。
失恋するよりも早く、終止符を打たれる音を聞いた。
「オイ、お前ら。紙、失くすんじゃねーぞ。人数分しか刷ってねーからな。家帰ってじっくり考えてこい」
教師の声に、二度目のそれの存在を神楽は意識する。そして、一度目の進路希望調査の紙――その所在が今になって気になりはじめ、神楽は唸った。彼が返そうとしたそれを、神楽は結局受け取っていないのだ。
季節とともに過ぎ去ろうとしていた、希望という名の光の果てに、諦めることのできない想いがある。
神楽は訴えかけるように彼を見つめた。
故意に逸らされているのだとわかる視線。
彼と目が合うことはない。受け入れてはもらえないのだと知っているから、期待がひび割れてゆくのにも怯えずにいられた。
教室にあるスピーカーからブツッと音がして、鐘が鳴る。聞き慣れた音であるのにも関わらず、肩が震えてしまい、周りを見渡した。誰にも気づかれていない。安堵と寂寥の交じる息が零れて、居心地が悪くなる。帰りのショートホームルームは省略され、生徒達は帰宅を許された。
家に帰るとすぐに、神楽は机の上に進路希望調査の紙を広げた。
空の灯りがしぼみ、視界が閉ざされてゆく頃。
真っ白いその紙に丸い染みが散ってしまい、自分の目の下からそれを遠ざけなくてはならなくなった。
次から次へと浮かんでくる思考に蓋をすることができず、ぼんやりと窓の外を見やる。
夜の訪れを知らせる烏の鳴き声に、小鳥の声が混じった。
温かな巣の中で、親鳥からの餌を待ち、ピーピー鳴く小鳥が、自分自身と重なってゆく。
彼は教師だった。巣の中にいる小鳥たちに、空に旅立つことを教える親鳥のような。
自分は、その親鳥に、隣で一緒に空を飛んでほしいと我儘を言ったようなものなのだろう。
顔が紅潮してゆく。これまでの行動を振り返り、自分がいかに子供であるのかを思い知らされたような気がして、恥ずかしいと思った。
彼は教師だった。教師と呼ぶにふさわしくない行動も多い彼だけれど、自分の目の前にいる男は、感情を隠す術を知っている大人の男であり、見紛うことなく、教師だった。
自分は、教師である彼に、生徒として振られたのだ。
頬を伝う涙の行き場はなかった。失恋の痛みに、鼻がツンとする。
あの日。希望は夢になってしまったのだろう。現実を見ろと教師は言いたかったのかもしれない。
そして、神楽はその現実に苦しんだ。
提出期限は金曜日。終礼を兼ねたショートホームルームで、書き終わった生徒から進路希望調査用紙を集める教師を、毎日目で追っていた。
神楽のそれは、金曜日になっても白紙のままだった。
金曜日の最後の授業は、国語だった。この授業が終わったら、ショートホームルーム。終礼までに彼は、未提出の生徒からそれを巻き上げるだろう。
教師が黒板にチョークを斜めに突き立てて文字を書き連ねてゆく。自然とリズムを生み出すチョークの音は、時計の秒針の刻みにも似ていて、耳に心地いい。
刻々と時間ばかりが過ぎてゆく。
黒板に書かれた文字を、ノートに書き写す。黙々とシャープペンシルを走らせている時間は単調で、何も考えずにいられた。
チョークの音がやんだ。教壇に立つ彼を見れば、生徒がノートに書き写すのを待つ姿勢に入っていた。
珍しく、彼の手元にはジャンプがない。何もすることがなくなったとき、彼はいつも教科書の間にジャンプを挟んで、顔色ひとつ変えずに読んでいるのだ。
神楽は教室を見渡した。彼の態度に違和感を覚えている生徒はひとりもいない。平穏な授業の光景に、自分ひとりだけが取り残されたような気持ちになる。
再びノートに視線を落とそうとして、ふと視線を感じた。恐る恐る顔を上げると、銀八がこちらを見ている。目が合うのは、いつぶりだろう。
故意に視線を逸らそうとした彼は、すぐにまた視線を戻した。眼鏡の奥にある目が、大きく見開かれてゆく。
ポツ、ポツ、と手元で音がした。
雨でも降りはじめたのかと思えるくらいに、自分自身に対して関心を失くしてしまっていた。
風に揺れるカーテンの向こうに広がるのは、高く、遠く、澄みきっている秋晴れの空。
その天の下で、ちっぽけな自分だけが、泣いている。
何事もなかったかのように、視線を落とし、ノートの上にシャープペンシルを突き立てた。
頭に一時的に記憶されている、黒板に書かれた文字を書こうとして、失敗する。水溜りを作るように濡れていた紙に、黒鉛を突き立ててしまい、ぐしゃりと紙が破れる音がする。
眠いのを誤魔化しているような素振りをみせて、濡れた目元を拭おうとするが、それにも失敗した。眼鏡が肌に食い込んで、自分を追いつめる痛みが増す。
「…………ッ」
早く授業が終わってほしい、とそればかりを考えた。顔から何から、すべてを洗い流したくてしょうがない。
目を閉ざして、鐘が鳴るのを待つ時間は、ひどく長く感じた。時計を確認することもせずにひたすら耐えていると、教室がざわつきはじめた。
近くに人の気配を感じて、神楽はゆっくりと目を開く。自分の席の斜め前に人が立っていた。視線を上げていき、顔を見て、息を呑む。
視線を少しずらすと、白衣が教壇に投げ捨てられているのが見えた。
腕を強く引かれて、何が起こったのかわからなくなった。机は斜めに傾き、椅子は耳をつんざくような音を立てて床に転がる。
抵抗することも思いつかずにされるがままになっていると、彼が教室から外へ出ようとしていることに気がついた。
その場に踏みとどまろうとすれば、更に強く腕を引かれる。派手な音を立ててドアが開き、廊下へと連れ出されてしまった。
教室の廊下側の窓がすべて開いて、生徒達が顔を覗かせる。
騒がしくなる教室を一度だけ振り返り、「自習!」と告げた彼は、前へと足を踏み出した。
「せ……先生ッ!」
涙もいつしか引っ込んでしまい、神楽は声を上げた。彼は返事ひとつしない。
Z組の教室から騒ぎが伝わったのだろう。他の教室も、廊下側の窓が次々に開かれてゆく。
この階にあるすべての教室から注がれる視線を受けながら、彼の腕に導かれて、前へと進んでゆく。
神楽の目の前には、彼の大きな背中があった。見慣れていない、白衣で覆われていない背中を追いかけた。
階段でも彼の腕は容赦なく神楽を引き寄せた。転びそうになりながらも必死についていく。
昇降口で靴を履くように促されて、急かされたわけでもないのに、急いで靴を履いた。履き終えると、再び腕を引かれる。
外へ出て、これから一体どこに行こうというのだろうか。
問いかけるタイミングが見つからず、神楽は黙って身をあずけていた。
校門側にある複数の教室の窓から、生徒達が身を乗り出すようにしてこちらを見ているのがわかった。
授業を抜け出して学校の外に出ようとしている今の状況が、現実味を帯びてゆく。
躊躇う素振りひとつ見せない彼に、門の外へといざなわれてゆく。そして、現実の外へ出た。
