道を横断する前、車が通らないかを確認するように、安全確認をする。右、左、もう一度、右、左。見知った顔がいないことを確認して、そっと手を伸ばした。けれど、小さな戸惑いに手が震えてしまい、伸ばしかけた手は空を掴む。やっぱりやめようとその手を元に戻しかけたところで、力強く手を引かれ、握りこまれた。西日の中にある自分たちの影がそっと重なり、陽を受けたように頬が熱くなる。
神楽は、隣に佇む彼を見上げた。
彼は、こちらを見ようとはしない。表情もまったく変えず、死んだ魚のような目をまっすぐ前へと向けている。それでも、密かに繋がれた手と手の間の温もりが確かにここにはあるから、胸を震わせようとした不安は、安心へと変わっていった。
「銀さん! 神楽ちゃん! お待たせしました!」
新八の声に、同じタイミングで互いに手を離す。秘密を隠すことに慣れてしまった自分たちは、何事もなかったかのようにして新八を振り返った。
CDショップから出てきた新八は、満足気な表情をしている。お目当ての品は手に入ったのだろう。新八の手中にあるのは、寺門通のニューアルバム――観賞用、保存用、布教用、実用用の四枚だ。
「よーし。じゃあ、けーるか」
踵を返し、歩き始めた銀時のあとを追う。夕刻の商店街の賑わいは、仕事帰りの疲労感を掬いとってくれるような優しさと温かさに満ちていた。その傍らで、手に残る温もりが小さな痺れを持ち、全身を覆おうとしている。はっと我に返り、その手を後ろに回したが、かえって不自然な動きとなってしまった。傘を持つ方の手にぎゅっと力をこめて暗雲を振り払おうとするが、それもうまくいかない。……寂しさと罪悪感のせめぎ合いに心を傾けないようにして、いつも失敗してしまう。
「神楽ちゃん、どうかした?」
「ウウン。なんでもないネ」
夕陽の作り出す三人と一匹の影を見つめながら、神楽は首を左右に振った。
帳(とばり)を下ろそうとする空の色が、地面に色濃く降り注ぐ途中。下を向いて歩いていると、銀時と新八が立ち止まったので、慌てて歩む足をとめる。気がつくと、万事屋と恒道館の分かれ道に差しかかっていた。
「じゃあ、僕はこのまま直帰しますね」
「オウ。また明日な」
「新八ィ~またナ~!」
「ワン!」
新八と別れると、再び静寂がやってきた。とぼとぼと歩きながら、隣を歩く銀時の影を見つめる。夕陽影は、ありのままの形を象る、自分たちの影を作り出していた。
一度だけ目を閉じ合わせ、前を向く。道行く人の目に自分たちはどう映っているのだろうかと考えを巡らせながら、神楽は早過ぎた告白の日を思い返していた。
――その日は、何かの記念日でも特別な日でもなかった。しかし、ちょうど今このときのように、夕陽の光を意識せざるを得ないほど、西日を眩しいと感じた日だった。
銀時は外へ出かけてしまい、新八も恒道館へ帰ってしまっていたので、夕陽の射し込む万事屋は、外の賑やかさとは対照的にひどく静かで落ち着かなかった。
特にすることもなかったので、神楽はテレビの電源を入れる。何とはなしに画面を見ると、ドラマの再放送が流れていた。毎週見ていたわけではないが、以前、月曜九時から放送されていた恋愛ドラマだったと記憶している。画面の中は、今の時間と呼応するかのように夕焼けの光で満ちていた。主題歌が挿入され、見せ場なのだろうシーンを演出しているが、あまり興味も沸かず、チャンネルを変えるためにテレビに近付く。そこで、一瞬BGMがやみ、思わず画面に目が行った。
画面の中。ドラマのヒロインが、笑顔で告げる。
『……あなたのことが好きです』
胸を揺さぶられるような感覚に支配された。チャンネルを変えるために伸ばした手が、無意識のうちに電源を落とす。再び静寂が空間を包んだ。
『好きです』
その言葉を、美しいと思った。眩いと思った。
神楽は「フン」とテレビから目を背けて、溜息を吐く。いつか自分も、その言葉を紡ぐ日がくるのかもしれないが、あの天パの口から、「ガキ」という言葉が出なくなるまで、口にできない言葉なのだということを頭で理解していた。……あと何年後になるかもわからない未来の話は、ひどく現実味がない。
神楽は窓の外を見つめる。電気をつけていないため部屋はほのかに薄暗いが、その色濃さが射し込む夕陽の色を際立たせている。沈む前の光は自己主張を始め、直視できないほどの輝きに目が眩んだ。
このとき、胸の内から溢れ始めたものを吐き出す場を求めてしまったことは、神楽にとって不覚でしかなかった。
あと何年包み隠さなければならないのかわからない秘密を、ふたりのいないうちに吐き出してしまいたくなったのも、夕陽の光によって曝け出された情動だったに違いない。
神楽は、定春の前に立つ。まるで、いつか来る日のための予行練習を始めようとしているようにも思えて、緊張した。
「……定春ぅ~ちょっとだけ付き合ってネ。銀ちゃん役になってヨ」
「ワン!」
定春の両目が弛んだのがわかり、「銀ちゃんにそっくりアルヨ~」と白く綿毛を思い起こさせる毛を撫でる。大きく息を吸って、両足を揃えて立ち、背を伸ばした。思えば、毎日のように心の中では想っていても、独り言でさえ口にしたことは一度もなかったことに気づく。初めて声に出すことは、勇気がいった。
「あのネ……銀ちゃん」
「ワウ」
「……私、銀ちゃんのことが好きです」
初めて口にした言葉は、胸に更なる鼓動をもたらした。同時に、どうしようもない照れが生まれて、定春の白い体に顔を埋めて擦り寄る。そこへ、予想だにしなかった声が、突如、降ってきた。
「……もう一回」
熱した頭に一気に冷水を浴びせかけられたような驚きに、心臓が跳ねた。おそるおそる顔を上げる。一体、いつ帰ってきたのだろう。いつからそこにいたのだろう。
「……ぎ、ぎ、銀ちゃん」
「そうだよー。そっち定春。銀ちゃんこっち」
「ワン!」
銀時の顔は、部屋に射し込む夕陽に照らされていて、どんな表情をしているのかは、まったくわからない。
「オラ。ちゃんと聞いててやっから」
だが、彼のその声は、優しく自分の背中を押そうとするのだ。
場を盛り上げるためのBGMはない。ドラマの中の女優のような笑顔も作れない。ただ、夕陽の光によって包まれるこの世界は、現実味のない現実で、彼の許しは、その世界を優しいものにした。
「あのネ……銀ちゃん」
「オウ」
「……私、銀ちゃんのことが好きです」
静寂が耳にうるさく、胸の音が騒々しい。静かな部屋の中で、自分だけが落ち着きなく暴れ回っているような気がしてくる。
居たたまれなさに胸が詰まり、俯きかけたところを定春に背中を押された。予期できぬ衝撃によろめいたところを、銀時に抱きとめられる。支えるように伸びた手に、拒まれなかったと、受け入れてもらえたのだと、知った。
ゆっくりとその腕に力がこめられてゆくような感覚があり、小さく身じろぐ。
「銀ちゃんは?」
「……ン?」
「銀ちゃんは、私のことどう思っているアルか?」
銀時の呼吸が一瞬とまったのを、神楽は近くで感じた。
何かに気づいて我に返ってしまったかのように、力のこめられようとしていた腕にも躊躇いが走り、緩やかに離れてゆく。そのかわりとでもいうように、大きな手が頭の上に乗せられた。
「――そいつァ……悪ィな、言えねーや」
「……え」
「まだ秘密」
――拒まないでいてくれる手に、受け入れてくれようとする手に、嫌われているのではないとわかる。それでも、自ら求めようとはしてこないその手に、隠されたままの秘密に不安が募るのは、どうしようもなかった。
彼の答えがどんなものであったとしても、自分がその答えを受け入れられる日がくるまで、彼は待とうとしているのかもしれない。もしそうであったとしても、自分を傷つけないため、嘘をつかないための秘密ではないことを、ただひたすらに願いたかった。
近づいたと思ったら離れてゆく、男の気持ちは、どうしたってわからない。
「――ズルいヨ、銀ちゃん」
「そうだな……」
どんな答えであったとしても、もう一度聞こうとしなかったこのときの自分を、その答えを恐れた自分を、大人になりきれない子供だと、神楽は思った。そして、そんな自分をもう終わりにしなければならないと、神楽は心の中で強く誓う。
目の前にある階段に、神楽は今ある現実へと引き戻された。回想を巡らせているうちに、いつの間にか万事屋へ到着していたらしい。
階段を昇り、玄関の扉を開く銀時のあとを追うようにして、家の中へと入る。
広く大きな背中を目の前にして、神楽は堪らず彼の背にしがみついた。部屋へと続く廊下を歩く彼が、足をとめる。着物に皺を作ってしまいそうになるほどに、指に力がこもり、それとは裏腹に声は震えた。
「……いつまで秘密にするネ?」
何を、と言わなくても、銀時はすぐに察してくれた。
「……あと、もうちょっと、な」
「……私が大人になるまでアルか?」
静寂は長く、否定はない。違うと言わない彼の、嘘をつかない彼の、優しさが好きだ。
「かーぐーらー」
名前を呼ばれただけなのに、その声の抑揚がまるで、「泣ーくーなー」と言っているように聞こえた。小さな子供をなぐさめるような声に、優しい手の温もりが重なる。頭を何度もポンポンと撫でられて、頑なな決意を揺るがそうとする涙腺が刺激されてしまった。
「泣き虫」
「泣いてないネ」
「じゃあ、その目と鼻から出てるモンは何なんだよ」
「……」
神楽は、銀時の腰に手を回し、顔を押しつけて左右に擦った。
「オイィィィィィィィ! それタオルじゃねーから! 神楽ちゃん、離しなさい! めっ!」
日常を演じようとする彼の言葉に逆らうようにして、神楽はさらに力強く顔を擦った。右、左、もう一度、右、左。何かを振り切るように、頭の中に過る何かを追い出すように、何度も擦る。しだいに顔がひりひりと痛み始めて、一度顔を離し、腰に回した腕も解いた。けれどすぐに目と鼻から湧いてくるものがあり、もう一度、彼の背中に、めりこませるように顔を押しつける。
「……ッ」
嗚咽が零れるのも必死で押しとどめながら、腰に回した両腕にぎゅっと力をこめる。力をこめればこめるほど、銀時の体から力が抜けてゆくのがわかった。
「もう限界かねェ……」
小さな声で呟かれた彼の独り言に、顔を上げようとして失敗する。
温もりが離れ、追いかけようとする前に、熱を浴びた。彼の両腕の中に自分の体がおさめられているのがわかり、神楽は信じられない気持ちで目を見開く。
抱きとめるだけではない、抱き締められていると、ちゃんと感じる。
「……」
「俺ァ、歯止めが欲しかったんだよ」
「……」
喉がつかえて、うまく声を出せないでいると、「言わなくていい」とでも言い聞かせるかのようにして、銀時の腕にさらに力がこめられた。背中の骨が砕けてしまいそうになるほどに強く抱きしめられて、その息苦しさに胸の中が飽和する。
「一度でも口に出しちまうと、もう誰にもとめられねェから」
「……銀ちゃ……」
夕陽は沈み、影は消える。
神楽は、耳元に寄せられた銀時の唇から紡ぎ出される言葉を、静かに待った。
翌日。何の変わりのない、いつもの日常がやってきた。昨日の出来事がまるで夢の中であったように感じられるほどに、変化のない日だった。ところが、平凡であったはずの今日というこの日は、昼を過ぎた頃に、現実へと続く架け橋を繋いだ。
「神楽、手」
ソファの上でゴロゴロと寝転んでいるところへ、銀時が顔を見せて言う。
何を意図しているのかはわからなかったが、言われた通りに手を差し出すと、ぐいっとその手を引かれた。横になっていたところを、ゆっくりと引き上げられてしまったので、寝転んだままの姿勢を保つこともできず、そのまま立ち上がる。そのまま、ぐいぐいと繋がれた手に導かれた。
「ぎっ、銀ちゃん? どこ行くアルか?!」
問いかけても返事はない。だが、答えはすぐ傍にあった。和室で音楽を聴いている新八の元へと、連れてこられる。立ち止まった銀時の横顔を見上げ、神楽は彼が何をしようとしているかを確信した。
「新八、大事な話がある」
銀時の声に、両耳につけていたイヤホンを取り去って、新八がこちらを振り返った。イヤホンからは、寺門通の新曲が漏れ聞こえてくる。新八は、一時停止ボタンを押すことも忘れ、メガネの奥にあるその目を、大きく見開いた。
「どうしたんですか? 銀さんも神楽ちゃんも。手なんか繋いじゃって」
新八の驚いたようなその声に、銀時と同じタイミングで息を呑む。
繋がれた手と手の間の温もりに、手にこめられる彼の力強さに、不安を感じることはもうなかった。
これから明かされようとする秘密は、万事屋に射し込む陽の光を、眩しく弾いた。
FIN
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