冬の記憶が肌に凍み込む季節。暖かく感じるはずの陽の温もりは、凍えの季節を前に遠慮することを覚えてしまい、その反照を以ってしても、地に熱を分かつことはできないようだった。
 季節の訪れは音を立てず、歩くことを覚えたばかりの幼子の歩みのように、一定のリズムを刻まない。それとは対照的に、今、銀八の手元ではカタカタと不変のリズムを刻む音があった。
「……ハァー」
 視界の隅には首に巻いた暖色の赤が散らつくが、吐き出した息は白く、冬の到来を眼前に見る。そこへ、自分の立てるリズムとは僅かに遅れたそれが、背後で遠慮がちに奏でられ始めた。
 カタカタ。カタカタ。それは、自分の手元で鳴り止まぬそれと同じ音――小さくなった石鹸が、箱の中で動き回る音である。後ろを振り返ると、見慣れた桃色をそこに見つけた。少女の手荷物に目が留まり、銀八は問いかける。
「神楽、お前も銭湯に行くのか?」
「ウン。先生もアルか?」
「そーだよ。俺の部屋、風呂ねーからな」
「マジでか!」
「ああ。……神楽、お前の部屋は風呂がないってワケでもねーだろ?」
 少女の家に家庭訪問に行ったときの記憶を呼び起こす。すべての部屋を見て回ったわけではないが、部屋へと案内される間に、それらしきものを垣間見たような気がするのだ。
「……ぶっ壊れたアル」
「あん?」
「お風呂、ぶっ壊れたアル」
 少女の口からそれを聞くと、お湯が出なくなったとか、排水溝が詰まったとか、そういった類のものではなく、風呂そのものが破壊されたように聞こえるから不思議だ。……事実、そうであるかもしれないが、これ以上の詮索はやめておくことにする。神楽が傍らに並ぶのを待ち、銀八は再び歩を進めた。
「……それで、風呂が直るまでは銭湯通いってワケか」
「そーアル!」
 彼女の青色がこちらを向き、弧を描いて閉じられた。
 なんでそんなに嬉しそうなんだよ。
 喉元までやってきた言葉は、冷えた外気を吸い込むのと同時に、吐き出されることなく滑り落ちていく。
 神楽は中国からの留学生だ。銭湯に行くのはこれが初めてで、はしゃいでいるのかもしれない。高校三年生といえども、まだまだ子供だ。せっかくの陽気に水を差すような真似はしたくなかった。
 銭湯に到着すると、顔馴染みの老婆が、抑揚のない声で料金を告げた。
「大人二百円。小人百円」
「「……」」
 自分ひとりのときは、決して付け加えられることのない料金案内に、銀八は苦笑する。
 銀八は受け皿に百円玉を二枚乗せて、神楽を盗み見た。頬を僅かに膨らませて、彼女は硬貨を握った手を、受け皿の上で開く。二枚の硬貨にさらに二枚の硬貨がぶつかり、無機質な音が鳴った。
「コイツ、こう見えても高三なんだよ。バーさん」
「……こう見えても、は余計アル」
 彼女の頬は、ほのかに赤い。子供をあやすときはこんな気持ちになるのだろうかと微苦笑しながら、銀八は桃色の頭に手を置き、かき混ぜるように撫でた。
「じゃあな、神楽。のぼせんなよ」
「……ウ、ウン……」
 手の重みに逆らわずにいたのか、俯いてしまった神楽のつむじを見つめて、銀八は微笑む。そのまま「女」と書かれたのれんをくぐる神楽の背中を見送り、銀八も「男」と書かれたのれんをくぐった。
 数十分の入浴の後、湯気の白に余熱を残して、外へ出る。神楽はまだ湯船の中だろうとぼんやり考えていた先に、見慣れた桃色を見つけた。意外にも少女のほうが出るのが早かったらしく、背中を壁にあずけて、身を縮こまらせている。浴びた湯の温もりが冷めるほど、外にいたのだろうか。
「……なんだお前、待ってたの」
「ま、待ってなんかないアル!」
 そう言う割には、少女の髪は十分に乾ききっておらず、水滴が髪先に集まり溜まりを作っている。なにかに急かされるように出てきた出で立ちだ。
「そうかァ、じゃあ俺、こっちだから」
 家へと向かって歩き出すと、少女も後ろから遅れてついてくる。些細な駆け引きをしているような気分になってくるが、数分も経たないうちに、小さなくしゃみと鼻を啜る音が聞こえ、銀八は我に返った。背後を振り返ってすぐ、少女の前に歩み出る。驚いたような表情を見せた神楽に、今の自分には不要である布を、幾分乱暴に巻きつけてやった。
「カゼひくぞ」
「……ウン」
 頷き、俯いたままで、少女は小さな声で礼を言った。
 少しでも多くマフラーに顔を埋めたいのか、身を捩り始めた神楽は、余程寒かったのか、耳まで赤くしている。そのまま見入っていると、白い息を吐き出した少女が、首に巻かれた赤に目を細め、頬を擦り寄せるのが視界に入った。
 銀八は目を逸らすが、無意識の行動は、銀八自身を揺さぶり、その歩みを止めさせる。抗うために、再び足を動かすと、一瞬躊躇ったような素振りをみせた神楽も、そろりそろりと隣に並んだ。
 カタカタ。カタカタ。ふたつの音が、違うリズムで再び刻まれ始める。
「……風呂はいつ直るんだ?」
 無言の間は長い。桃色の少女は、目を合わさずに口を開いた。――偶然が引き起こした必然を、神楽は望んでしまうのだろうか。
「……わからないアル」
「……そうか」
 速まる律動が、確かな響きを帯びて、耳元で鳴る。
 明日から「一緒に出よう」と言うべきか。銀八は、少女が小さく鼻を啜る音を聞きながら、ずっと考えていた。



FIN




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