翌日。誰に聞いても「快晴」と答えが返ってくるような天気となった。
 朝食は神楽の好物の卵かけご飯だったが、神楽はおかわりをしなかった。昨日のパーティーで確かに食べ過ぎてはいたけれど、それが原因ではないことは、誰の目から見ても明らかだった。
 刻々と、宇宙船の出航時刻が近付いてきていた。まだ家を出るには早過ぎる時分ではあるが、神楽が荷物を持ち玄関へと向かったので、その後ろを、ふたりと一匹で追う。
「神楽ちゃん、本当にここでいいの?」
「ウン」
 誰もがターミナルまで見送りに行くことを望んだが、神楽は頑なに首を上下に振らなかった。散歩に出かけるときのように、万事屋の玄関で「いってきます」と口にする少女に、いつものように「いってらっしゃい」と各々の声が揃う。別れではなく旅立ちであることを強調したいのは、少女自身に他ならなかった。
 神楽の気持ちをわかっていながら、帰るところは変わらないのだという少女自身の言葉を聞いておきながら、それでも銀時は、彼女が望んでいるだろう言葉を言わなかった。そのたった一言を、一度も口にすることのないまま、銀時は神楽に別れを告げる。約束という名の、甘い縛りになりかねない危うさをも含むその言葉は、口にせず、呑みこむしかなかった。
 玄関の扉が閉まると同時に、定春が寂しそうな声で鳴いた。
 神楽がいなくなった途端、家中が静まり返った。すぐには馴染めない現実がそこには転がっていた。数時間後には「ただいまヨ~」と神楽が帰ってきそうな気がする。これから歳月の経過とともに、少女のいない生活を実感してゆくことになるのだろう。
「……銀さん、これで良かったんですか」
 閉じられた玄関の扉を見つめながら、新八が静かな声で言った。何が、と聞かなくても、新八の意図することはわかっている。
「ああ、良いんだ」
 銀時は、玄関に背を向けた。新八の視線をその背に受けながら、廊下を歩いてゆく。新八の吐息がやけに大きく聞こえた。静寂は、頑なに閉じた強固な胸に沁み入り、広がる亀裂の存在を浮き彫りにしようとした。
「神楽ちゃん、随分と慌ただしく出て行きましたけど、忘れモノとかしてないですよね」
 場を繋ぐためか、新八が普段と変わらぬ口調で言う。
「あー大丈夫だろ。……でも、ま、念のため見てくっか」
 特にすることもなく、行き場もなかった。神楽はもういないのだと自分に言い聞かせたくて、銀時は押し入れへと向かう。
 押し入れの襖を開けると、神楽の私物が、持ち主の帰りを待つかのようにして、居残りを決めていた。本に、らくがき帳に、鉛筆に、消しゴム。それらは、忘れ物ではなく、意図して残していったものだとわかる。
 息を吸い込むと、かすかに酢昆布の香りがした。さては押し入れの中で隠れてこっそり食べていたな、と銀時は苦笑する。こんなに狭い密室となれば、匂いも籠もるだろう。
「……にしても、こんな狭ェとこによく寝れたよな」
 ここで寝てみたいとは思わないが、仰向けで寝転がるにしても、足を十分に伸ばせそうにないほどの狭さだ。それに、想像していた以上に、光の入らない場所でもあった。少女のいたこの場所は、今までそのような印象を一切与えてこなかったというのに。
 しばらくは視界から外そうとするだろうこの場所を、最後にぐるりと見回し、襖を閉じようとして、ふと押し入れの天井に目が行った。小さく光を反射させるものがある。鉛筆で何か書かれているようだった。
 目を凝らして見る。鉛筆で書かれたそれは、相合傘のようだった。こんな場所にらくがきをする人間は、ひとりしか思い当らない。一体どこでこんなものを覚えてきたのだろうと思うが、年頃の女子が興味を抱きそうな類のものではある。
 十センチにも満たない、まだ描かれて間もないように見える相合傘の左側には、意外にも『銀ちゃん』と自分の名前が書かれてあった。その右側には、誰の名前も書かれていない。いや、何かが書かれて消された跡が残っていた。
「……かぐら……」
 息を呑んだ。傘の上には、左右対称になっていないハートが描かれている。
『……もう一回、書けよ。今度は、絶対に消されないところに』
『…… ウン』
 砂浜で神楽が波から護ろうとしていたものが、こんな形でここに残されていた。木切れを鉛筆に代え、砂浜ではなくこの場所を、少女は最後に選んだ。神楽が絶対に消えないと信じている場所は、万事屋での自身の居場所なのだと、拙い字で必死に訴えかけてくる。
 どんな気持ちで、消えた砂の字を護り見送ろうとしたのだろうか。どんな気持ちで、自分の名前を書き、消したのだろうか。
 もし、あのとき、その名を波が奪うまでに、もっと早く彼女の元へ向かっていれば、何かが変わっていたのだろうか――。
 何ひとつ実を結ばないまま、少女の心は、押し入れに残る拙いハートとともに、今まさに置き去りにされようとしている。
 腹の底で堪えていたものが、心の臓をめがけて迫り上がってくるのを感じた。傷口などなくても、痛みを感じる場所があった。今となってはもう、傷だらけの身体を潮水に浸されてしまったかのように、抗うこともままならない。
「神楽ちゃん、何か忘れ物でもしてました?」
 押し入れの前で佇んだままでいることを疑問に思ったのだろう、新八が背後からそっと声をかけてきた。その声に我に返り、返事をしようとして、なかなかどうして否定の言葉が出てこない。
「……残していったモンは忘れモンのうちに入んのかね」
「……え?」
「…… なァ新八、神楽はここに帰ってくると思うか?」
 何か期待する返事があってこんなことを問うたのか、銀時自身にもわからなかった。新八は、静かな部屋を見渡しながら、懐かしむような目をして、銀時に言う。
「神楽ちゃんが帰りたいと思ったときに、帰ってきますよ。……だって、ここは、神楽ちゃんの家だから」
「……そうだよな」
「でも……そう望むことは、悪いことだって僕は思いません」
「……」
 新八がまっすぐ見上げてきた。
「……銀さん、これで良かったんですか」
「――二度目だな」
 銀時は力なく笑った。
「……何度でも、ききますよ」
 アンタが納得のいくまで、と付け加えられて、返す言葉もない。新八は、眼鏡の奥にある瞳を柔らかく細めて、問いかけるように、確かめるように、言葉を紡いでくる。
「……本当は、ちゃんと気づいてくれてたんでしょ?」
 今度こそ、視線だけではなく言葉で新八は訴えてきた。
 きっかけを与えようとしたのは、新八だった。そして、新八の本意に気づいたのは、自分だけではない。
 春風になびく伸びた桃色の髪。
 おそるおそる腰に手を回し、背中に頬を擦り寄せてきたその仕草。
 糖分過多のお弁当。
 砂の上に描かれた拙い絵。
 与えられた機会の一瞬一瞬に、まっすぐ自分へと向けられてきた少女の心が、ここにある。
 銀時は、否定の言葉を口にしないことで、新八に応えた。すぐ、ふたり同時に時計へ目が行き、それに気づいて一緒に笑う。
 窓の外は雲ひとつない快晴。晴れの日に傘を差す女を探しに行く自分を、新八は気づかないフリをして送り出してくれるだろう。



 陽の光を浴びる番傘に、桜の花弁が舞い降りた頃。少女は宇宙へと旅立つために、万事屋という巣から飛び立った。
 時が過ぎるのは誰にもとめられず、今まさに少女のいない生活が始まろうとしている。寂しいという感情の一歩先で、温かな春の風が、胸に空いた大きな穴へ舞い込み、少女へ向けている感情が何であるかをそっと謳った。
 腹の底の底へと押し込み、隠していたはずのそれは、一度こみ上げてくるとどうにもとめられず、今にも零れ出さんばかりだ。
 春風に強く背中を押されるようにして、かぶき町を駆けた。番傘を持って歩いているだろう少女の後ろ姿を探す。自分の背を追いかけてきていた少女を、今度は追いかける立場になり、変えようとしている自分たちの関係を示唆しているかのようだった。
 こちらへ向かって歩いてくる少女に、銀時は足をとめる。後ろ姿を探していたが、その少女は正面からやってきた。少女もすぐに自分の存在に気付いたようで、歩みをとめる。「あ」と小さく呟いて、番傘を深く被ってしまった。
「……忘れモノしたアル」
「そうかい……」
 神楽は万事屋へ引き返そうとしていた。言い訳するような声のなかに、彼女の真意が見え隠れする。
 残してゆくという意思が失われれば、それは忘れものになるのだ。
「銀ちゃん……」
「……何だ」
 小さな子供に答えを促すような声に、近くとも異なる。自分でも聞いたことのない、誰にも聞かせたことのないようなそれに、銀時自身が驚いた。凍えが溶けてゆく音を、胸の奥にきく。
 表情が見えないかわりに、傘の柄を握る少女の手にぎゅっと力がこめられるのが見えた。
「――自分のものは自分で持っていくって決めたネ」
「ああ」
 小さくとも強い光があった。自分たちがこうしてここにいるのは、必然なのだと確信できる眩しい陽だった。どんなに懸け離れようとも、道は繋がり、光源へと導かれてゆく。
 心が残されたままの未来を想像することができないのは、望まぬ行き先に歯止めをかけようとする意思が深にあるからだ。
 そして、神楽も自分も、互いにそれに気づいていた。
 ――揺らぐことのない彼女の決断を、受けとめる覚悟はできている。
 春風が番傘を持ち上げた。見せるつもりはなかったのだろう少女の表情は、精一杯の笑みを湛えていて、目尻には一滴の小さな光が、輝いた。
「――銀ちゃん、大好きヨ」
 まっすぐでひたむきな心が向ける瞳は、これ以上になく美しい。
 言葉が、攫われてゆく。
 流れる静かな時間をどう受け取ったのか。神楽はくるりと背を向けて、「バイバイ」と口にした。震える彼女の声に、心が急く。そのまま歩いて行こうとするので、少女から番傘を奪い取った。機敏に振り返ろうとする少女より早く、背後から強く抱き締める。
 初めて懐に迎え入れた神楽の身体は、とても小さく温かかった。子兎のように震える小さな身体を逃さないように片手で強く抱き込み、咄嗟に掴んだ傘の柄を、そっと少女の手に返した。
 そろそろとそれを受け取って、神楽は呼吸することを忘れてしまったかのように、微動だにしなくなった。
 少しずつ熱を持ち始め赤くなる少女の耳に、銀時は、言葉を直接吹き込む。
「お前が描いた傘……俺の隣は、ずっと空けとくからな」
 ピクンと神楽の身体が震える。呼吸がわずかに乱れて、はらはらと零れ落ちてゆくものがあった。
「――銀ちゃん……」
 雲ひとつない空の下に、水滴が落ちる。
 両腕で神楽を強く抱きながら、手放したくないという想いが迫り上がってくるのを感じた。自分にとって、最も手強い感情だろう。呼び覚まされた激情は、強く、静かに、胸を覆い、約束の言葉に中和される。もう、恐れることは何もなかった。
 あのとき、言えなかった言葉を、口にすると決めたのだから。
「……待ってるぞ」
 少女の呼吸を邪魔するようにきつく抱き、もつれた糸をほどくように腕の力を緩め、手を離した。温もりは余韻を残し、静かに発とうとする。
 銀時は、両手でポンと神楽の背中を押した。
「……ウン!」
 神楽は、大きく頷き、その力に押されるようにして、振り返ることなく駆け出して行った。
 銀時は神楽を目で追いかける。少女の後ろ姿が少しずつ少しずつ小さくなっていった。今日は、遠ざかったまま戻ってこないが、離れていても、離れないものがある。
 銀時は、微笑んだ。
 陽を受ける番傘の下。神楽の傍らにいるのは自分。――その傘の上には、左右対称となった心が、描かれてゆくに違いない。






FIN






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[2010/4/23] 読んでくださり、本当にありがとうございました!