翌日。快晴とまではいかないが、誰に聞いても「晴れ」と答えが返ってくるような天気となった。
朝、目が覚めると、主人の起床を待たずして、万事屋にはすでに朝の光景が広がっていた。窓は開け放たれ、眩しい日の光が目の奥を刺激する。ゆっくりと上半身を起こし、背伸びをした。台所が何やら騒がしいが、新八が朝食を作っている横で、神楽がつまみ食いでも試みているのだろうと思った。
隣室に行き、テレビの電源を入れてからソファに腰を下ろす。寝惚け眼で朝のニュースを眺めていると、新八と神楽が台所から顔を覗かせた。
朝の挨拶を交わし合ったあと、新八は台所へ戻り、神楽はそのままこの場所に残った。神楽はすでに寝巻きからお出かけ用の服に着替えている。ただ、髪の手入れは間に合っていないのか、長く伸びたそれは結われていなかった。
ふと、神楽の両手に握られている風呂敷に目が行った。布は、その中身の形を完全に隠すことができない。二段重ねの重箱が包まれているのだろう。その重箱の中には、神楽が自分より早起きをした理由がつまっているに違いない。
新八の作った朝食を食べ、食後のお茶を一杯飲み干したあと、出かける準備をした。玄関先でブーツを履いていると、「今日の夜はパーティーですからね。夕方には帰ってきてくださいよ」と新八が爽やかな笑顔で言う。
「わーってるよ」
新八の視線を背中に浴びながら、銀時は神楽より先に階下へ下りた。原チャリの横で、神楽を待つ。
いくら目的地のない旅とはいえ、普通、方角くらいは決めていそうなものであるが、今回は本当に何も決めていなかった。新八には電車の旅はどうかと『青春十六きっぷ』なるものの購入を勧められたが、『青春』と名のつくそれに身体中が拒否反応を起こしたため、断固として断り――いつも自分の愛用している原チャリで行くことに決めた。
待つこと一分未満。大事そうに風呂敷を抱えて、神楽が自分の元へとやってきた。風呂敷の中身は何かと詮索せず、無言で受け取り、原チャリの荷物格納場所へとおさめてやる。番傘は背中に括り付けていた。その小さな背中では、桃色の髪が何にも縛られず、春風に弄ばれている。
「お前、いつものボンボリはどうした?」
「……今日は上手く結べなかったアル。寝ぐせが直らなかったネ」
寝ぐせなどどこにも見当たらない。これは、少女なりの小さな背伸びであったのだと、このとき銀時は気がついてしまった。肩から背にかけて伸びた髪を風になびかせている様は、確かに実年齢より少し大人びて見える。胸に抱いた感想は、少女を喜ばせることのできるはずのものだが、口にすることはできなかった。
「……そうかい。それじゃ、これで寝ぐせでも何でもおさえとけ」
銀時はそう言って、ヘルメットを神楽に手渡す。
「ウン」小さく頷いて、神楽はそれを受け取った。
原チャリの二人乗りには慣れているが、神楽を後ろに乗せるのはそう頻繁にあることではない。エンジンをかけ、背後にかかるだろう重みを静かに待つ。
ヘルメットを深く被った神楽は、そろりそろりと座り、そうして、おそるおそるといった様子で、ハンドルを握る銀時の腰に手を伸ばしてきた。
「……振り落とされねーように気をつけろよ」
「わかってるアル!」
腰に回された神楽の手にぎゅっと力がこめられ、小さな衝撃とともに、背中に顔を押しつけられる。小さく頬ずりしているのが視界の隅に映り、銀時は堪らず目を逸らした。
目的地のない日帰りの旅の主導権は、神楽に預けることにした。神楽が「右」といえば右折し、「左」といえば左折する。「まっすぐ」といわれれば、行き止まりになるまで直進し続けた。一度通った道に戻ってきてしまった、ということも数回あったが、「何コレ。デジャヴ?」と突っ込むと、「銀ちゃんの気のせいアルヨ~」と神楽は無邪気に笑った。
原チャリのスピードが調子付いていくのと同時に、身体に触れる風も勢いを増してゆく。熱くもなく寒くもない風が、肌に心地いい。されど、自分の胸の凍えは溶ける気配はなく、表面を鋭利な刃物で削られるような感覚があった。
陽が高く昇った頃。湿り気を帯びてきた空気を大きく吸い込むと、潮の香りがした。
「銀ちゃん! 海アル! キレイアルな~」
道は、途切れることなくどこまでも続いていて、自分たちを海へと連れてきた。海岸線沿いを走っていると、見晴らしの良さからか、自然とスピードも上がる。潮風を浴びながら、バックミラーを覗きこむと、ちょうど神楽と鏡越しに目が合った。
「……降りるか?」
「ウン!」
海水浴のシーズンにはまだ早過ぎるためか、砂浜には人気(ひとけ)がまったくなかった。適当な場所に原チャリを停めて降りると、エンジン音に遮られていた波の静かな音が、よりはっきりと耳に伝ってきた。
「銀ちゃん、お腹空いたアルか?」
その声に振り向くと、両手で風呂敷をぎゅっと握りしめている神楽が、どこか緊張したような面持ちで自分を見上げていた。
「……ああ。そういえば、腹減ったな」
「……じゃあ、コレ、一緒に食べようヨ!」
頷くと、神楽が笑みを浮かべた。少女の背後にある太陽が眩しくて真正面から見ることができなかったが、つられるようにして自分の口元も綻びる。
潮風になびく桃色の髪のように、ゆらゆらと揺り動かされるような衝動が、さざ波のように銀時の元へ押し寄せ、静かに残ろうとした。
今にも崩れ落ちそうな海の家の屋根の下。広げられた風呂敷の中身は、お茶の入ったボトルと二段重ねの重箱。一段目はおかず、二段目はおにぎりが詰まっていた。
「朝、二人でこれを作ってたのか」
「……ち、違うヨ。私は見てただけアル」
「……ヘェー……全部新八が、ね……」
お手本のような三角おにぎりの列の隣に、丸なのか三角なのか形のはっきりしないおにぎりが並んでいた。それを手に取ると、「あ」と小さく神楽が声を上げる。迷うことなく口に入れ、咀嚼していると、神楽が自分の表情の動きを必死に探ろうとしていた。
鼻腔を擽るのは潮の香り。口腔に広がるのは、甘い糖の香りだった。
「……うめェ」
「ホントアルか?!」
「ああ、さすが新八だな」
少女の小さな嘘に、小さな仕返しをする。神楽は一瞬、複雑そうな表情を浮かべて銀時からプイと視線を逸らせたが、食べ物を前にして空腹に抗うのも限界だったようで、新八の作ったおにぎりを両手に持ち、次から次へと口へ放り込み始めた。
新八の作る料理は、極普通の一般的な味だ。それに比べて、神楽の作ったモノは、これでもかというくらいに砂糖が加えられていて、誰のために作ったのかをこれでもかと伝えてくる。
朝の台所での喧騒を思い出し、これが原因なのだろうと銀時は苦笑した。おそらく新八は、手にかける料理すべてに砂糖を加えようとする神楽を必死にとめていたに違いない。だが、結局、とめられなかったのだろう。それでも今は、それに救われていると感じた。口のなかに広がる甘みは、潮風に凍みた胸を優しく癒した。
瞬く間に重箱の中身はふたりの胃袋におさまり、銀時の腹もほどよく糖分で満たされた。
腹が膨れるほど満たされたことを考えると、神楽なりに遠慮している部分もあったのかもしれないと思えてくる。少女が本気を出せば、重箱二段では到底足りないからだ。
「ハァー……食った食った。ごっそさん」
銀時が食後のお茶を啜っている横で、空になった重箱を片付けながら、神楽が小さな声で告げた。
「……銀ちゃん、アリガト」
「ァン? 何か言ったか?」
「ウウン。なんでもないヨ」
「……神楽、美味かったよ」
「……銀ちゃん、何か言ったアルか?」
「――いや、なんでもねーよ」
――互いの声が聞こえる距離にいながら、聞こえなかったのを波の音のせいにした。自分たちの声は、耳ではなく互いの胸に、海風が運んでくれただろう。そしてその風は、時折冷たさをも含んで自分たちの元へとやってきてしまうのだ。
「クシュン!」
「――神楽、その格好、寒ィんじゃねーか?」
夏にはまだ遠い季節。食後で体温が上昇しているとはいえ、チャイナ服一枚では、海風に含まれた冷たさをすべて遮ることはできないだろう。
「平気アル。ちょっと一走り行ってくるネ」
「オイ、飯食ったあとに暴れると腹痛くなるって……ったく……」
上に何かを羽織るという選択肢は少女の頭の中にはなかったらしい。動けば温かくなる、というのはいかにも少女らしい考え方だ。引きとめる声は届かず、神楽は番傘を持って波打ち際へと走って行ってしまった。
追いかけることはせず、両手で頭を支えるようにしてその場に寝転がり、銀時は神楽を目で追いかけた。少女の後ろ姿が少しずつ少しずつ小さくなってゆく。
明日は、遠ざかったまま戻ってこないが、今日までは、遠ざかっても戻ってくるのだと、銀時は自分に言い聞かせた。
波打ち際では、どこからか舞い降りてきたのだろう桜の花弁が、水面で揺れていた。それらは、砂浜に取り残されるか、広大な海の底へ沈んでゆくか、ゆらゆらとその選択肢の狭間で揺れている。
その横で、神楽は木切れを持ち、砂の上に何かを書いていた。大きな自然のらくがき帳を相手に、何を書いているのだろうか。答えを求めない小さな疑問は胸に心地よく、銀時はしだいに眠気を誘われていく。目を閉じても、番傘をくるくる回しながら波打ち際で走る神楽の姿が、鮮明に瞼の裏に浮かんでくるようだった。
「銀ちゃん! 銀ちゃん! ちょっとこっちに来るアル!」
どれくらいの時間が経ったのだろう。神楽の声に、銀時は目を覚ました。余程自信のある絵でも書けたのか、神楽が手を振りながら自分を呼ぶ。頬は血色よく桜色を帯び、水面が光を弾くような笑みを散りばめていた。「よっこいしょ」と立ち上がり、神楽を焦(じ)らせるような速度で、近付いてゆく。
「あ!」
自分が神楽の元へ辿り着く前。神楽が声を上げるのと同時に、一際大きな波が、砂浜のそれをかき消そうとした。みるみるうちに少女の顔から笑みが失われてゆく。神楽は必死にそれを護ろうとするが、護れるはずもない。乾いた砂の上に描かれたそれは、潮水に浸り、混ざり、波の動きに逆らう術もなく遠くへと引き取られていってしまった。
しかし、春の海は優しく、すべてを消し去るようなことはしなかった。
銀時は、砂浜に残る少女の書いたものを見つめた。左右対称になっていない拙いハートの絵だけが、そこに取り残されている。波に奪われたため、ハートの下に何を書いていたのかは結局わからないままとなってしまったが、神楽にとっては特別なものだったのだろう。
少女の瞳は、残酷な現実と残映を映し出したあと、砂の上に残されたハートに、力なく緩められた。
跡形もなく消え去ったそれの上に、はっきりと残っている形がある。消されることなく残った偶然に、救われるものがあったのかもしれない。その境界の明瞭さは、自然が起こした気紛れにしては、奇跡に等しいともいえた。
銀時は、静かに言う。
「……もう一回、書けよ。今度は、絶対に消されないところに」
「……ウン」
頷く神楽の小さな手に握られた木切れが、呼応するかのように小さく震えた。小さな迷いと大きな決断の狭間で揺れて、踏みとどまったのだろうか。揺れる瞳の奥に、小さくとも強い光がちらついているように見えて、このまま目が離せなくなりそうだった。
神楽の視線が自分に向けられてゆくのを感じて、銀時は神楽に背を向ける。無意識のうちに拳を強く握りしめていたようで、そこには汗が滲んでいた。
そのあと、神楽が砂の上に木切れをなぞらせることはなかった。
「……そろそろ、けーるか」
どのくらいこの場所にいたのか時間の感覚は曖昧だったが、カラスの鳴き声が、家に帰る合図となった。空にも薄い橙色の光が綯(な)い交ぜになり、万事屋で待つ新八や定春たちのことを思い出させた。神楽は、海の向こう――水平線を名残惜しそうに見つめたあと、銀時を振り返って頷いた。
銀時は神楽の前をゆっくりゆっくり歩いてゆく。並んで歩くための速度だったが、神楽は、後ろに付いて歩くことを選んだようだった。
「――目的地はなくても、帰るところは変わらないアルな」
応えを求めてはいないだろう小さな少女の呟きが、波の音に埋もれてゆく。返事をするかどうか迷ったのはほんの少しの間だけだった。明日にはできない今日しかできないことがある。銀時は後ろを振り返ることなく、噛み締めるように言った。
「……そうだな」
明日から、少女の帰る場所は万事屋ではなくなる。
[2010/4/21]
