――その言葉を口にしたのは、果たして、夢か現か――……



 ロイ・マスタングの朝はこうして自分のオフィスに置いてあるソファの上から始まることも多い。
 窓から差し込む光に何度も目を瞬かせながら起き上がると、ちょうど良いタイミングで彼の副官であるリザ・ホークアイがやって来て、「またここで寝てしまったのですね」そう言いながらちょっと濃い目の珈琲を自分のために淹れてくれるのだ。
 温かい液体が喉を流れてゆき、そこから熱が広がってゆくように身体がトクントクンと鼓動を打つ。その感覚がとても心地良い。
 ……が、今日というほど寝覚めが最高に心臓に悪い日はこれまでに無かった。起きた途端、心臓はドクンドクンと激しく脈を打った。
「……っ」
 ロイは顔に熱が集中してゆくのを感じとっていた。おそらく今自分は耳まで真っ赤になっているに違いない、そう思いながらロイは振り切るように頭を乱暴に掻く。
 彼は今まで自分が見ていた夢を反芻した。
 夢の中で叫んだ自分の声が夢と現を繋いでいたようだった。夢の中で発したあまりにも大きく叫びにも似た自分の声に驚いて、ガバッとソファから転げ落ちそうになる勢いでロイは目を覚ましたのだ。
 ほんの少し思い出しただけで身体中の血が沸騰しそうである。いや、もうすでに滾っていると言った方が良いのかもしれない。軽く眩暈がするほどに体中が熱を持っていた。

『君が好きだからに決まっているだろう?!』

 夢の中で彼がその言葉を言ったのは、いつも自分の傍に控えている副官に対してだった。
 夢の中で彼女は自分を拒むように背を向けていた。そしてそんな彼女を振り向かせようと、自身の中で渦巻く感情そのままに彼は声を上げていたのだ。
 ロイは口元を手で覆った。らしくもないことだ。激情のままに声を張り上げるなんて。そう思いながらも自分がそうならないという確信がロイには持てなかった。それは、こんな夢を見ても仕方がないと思える理由が彼にあったからだ。
 リザとは既に上司と部下の関係を越えた関係ではあった。
 けれどそれを言葉にして――つまりは愛の言葉を、彼女に向かって囁いたことは一度も無かった。
 彼女とは言葉など無くても分かり合える関係だとは思っているが、ロイは不安になることが度々ある。自分の気持ちがどこまでリザに伝わっているのか分から ないというのもあるが、その前に。リザを好きになって初めて分かったことだが、本気で好きになった女には自分はどこまでも不器用だということを嫌でも自覚 し始めていたからだ。
 だから夢の中のように、リザが自分に背を向けていたら、自分の愛情が伝わっていなかったということが分かってしまったら、彼女を失いたくはないそのためだけに声を張り上げてしまうことも考えられなくはない。
 夢の中の出来事は一種の警告なのだとロイは自分に言い聞かせることにした。夢の中では叫んでいたけれど現実ではそんなことが起こらないように、自分自身 が自分に見せた夢なのだと。……そうでなければ、もし正夢になってしまうようなことがあったとしたら、とても耐えられたものではない。恥ずかしいことこの 上ナッシングなのである。

「おはようございます、大佐」
 そこでロイの思考は瞬時に打ち切られた。
 夢の中でも頭の中でもなく現実にリザの声が直に聞こえて、ロイの心臓は跳ね上がる。すっかり熱ってしまった頭の中で必死に思考を巡らせていたロイは、外部への配慮を怠り本日二度目のドッキリを味わうこととなってしまったのだ。
 予期せぬリザの来訪にロイは今度こそソファから転げ落ちそうになった。もうすでに出勤時間になっているのだから、リザがいつオフィスに現れても不思議で はないのだが。しかしオフィスのドアが開く音にさえも気付かなかったとは一体どうしたことだとロイは自分でも情けなくなった。
 口から飛び出した声にも上官としての威厳はない。
「ちゅ、中尉?!」
 リザは一体なにをそんなに驚いているのかと訝しげな表情をみせてから、ロイへと歩み寄った。
 皺になっているシャツに、触ったらチクチクしそうな無精髭、くしゃくしゃになった髪。近付くと、彼がまだ起きたばかりなのだということがよく分かる。
「まだ寝惚けてらっしゃるのですね。今日はいつもより濃い珈琲をお持ちします」
「……」
 夢の中の出来事を意識してしまっているロイは、近くに寄ってきたリザをじっと見つめてしまった。が、「……大佐?」 と彼女に呼びかけられて我に返る。
 ほんの数秒前の彼女の言葉を辿ってからようやっとロイは答えを返した。神経の伝達が上手くいかないのか、一つ一つの反応が遅い。
 彼女の言う通り、自分はまだ寝惚けているのかもしれない。
「……ああ、頼む」
「はい」
 ロイは体勢を整えることにした。今先程のような寝覚めはもうごめんだ、朝はやはりリザの珈琲で目を覚ますに限るとロイは思う。
 しかしソファから起き上がり伸びをしたところで、リザが給湯室に向かうものとばかり思っていたロイは彼女の思わぬ行動に一気に体温を上昇させた。
「それより……顔が赤いようですが」
「そ、そうかね」
「ええ。熱があるんじゃないですか?」
 なんと彼女はロイの顔色を窺いながら、彼の頬や額に掌で触れ始めたのだ。
 リザの手は熱った顔にはひんやり冷たく心地良いものではあったが、リザ自ら彼にこうして触れてくることなどほとんどなかったので、ロイはどう反応して良いか分からなくなった。
 しかも今日は夢のせいでいつも以上にリザのことを意識してしまっているから、どうにも落ち着かない。
「……」
「熱はないようですね。暑いですか?」
 すっと離れたリザの手に、ロイはほっと胸を撫で下ろし大きく息を吐いた。このまま触れられていればきっと窒息死していただろうと大袈裟にもそう思えてしまう。
 リザが触れている間、ロイは緊張のためか身体を硬直させていた上に息を殺していたのだ。
 呼吸困難も手伝い眩暈もするが、そんな自分を心の中で叱咤しながらロイはリザを心配させぬように言う。
「い、いや。平気だ。もうじき冷める」
「そうですか?」
 ロイはリザに首を上下に振ってコクコクコクと頷いた。いつになく大人しく従順である彼にリザは首を傾げたものの、それでなにか困ることもないので特に言及する必要もないと判断したのだろう。
 彼女は彼に向かって一礼し、軍靴の音を響かせながらオフィスを出て行った。


「……ふあぁ」
 鋼の錬金術師、エドワード・エルリックはロイのオフィスのソファに深く腰かけ、何度も顎が外れそうなほどに大きな欠伸を繰り返しながらロイが報告書を確認し終えるのを待っていた。
 エドワードと弟のアルフォンスはこうして報告書の提出のために度々東方司令部を訪れるのだ。
 エドワードとアルフォンスが東方司令部に着いたのは正午過ぎだったから、昼食で腹を満たしたエドワードにとってもお昼寝の時間としては最適である。しか も報告書にかかりきりでろくに睡眠時間も取れなかったエドワードに、このポカポカとした温かい空気に寝心地の良さそうなソファは、どうぞ寝てください、と 言っているようなものだった。
 二、三分だけ……と心に決めてエドワードは目を閉じる。
 ロイもロイで何度も欠伸を噛み殺していたが、報告書に目を通すスピードに衰えは無い。
 パラパラと報告書を捲る音だけが子守唄のようにエドワードの耳に微かに届いていたが、その音もすぐに止み、エドワードは夢の中の世界へ旅立とうとしていたところを邪魔された。
「鋼の」
「んあ?」
 報告書の訂正を命じられるものとばかり思っていたエドワードの返事は、眠いのも手伝って覇気のないものだったが、この後に続けられたロイの言葉にエドワードは一気に目を覚ますこととなる。
 彼がエドワードを呼んだのは、報告書のことではなく全く個人的な話を切り出すためのものだったのだ。報告書のことはすでにロイの頭の中から忘れ去られていた。
「君は……好きな女の子に自分の気持ちをどうやって伝えるのかね?」
「?!」
 エドワードは今朝ロイが転がり落ちそうになったソファで同じく転がり落ちそうになっていた。
「質問に答えたまえ」
「答えたまえって……一体どうしたんだよ、大佐。頭でも打ったか?」
 真面目な顔をして問いかけてくるロイに正直エドワードは驚いた。冗談ではなさそうだがこんなにも余裕のないロイの顔を見るのは初めてだったのだ。「い や。ただ、君の意見を聞きたいだけだ」とロイは言葉を続けたが、エドワードには自分に必死に意見を乞うているようにも見えたのである。
 何やらオイシイ匂いがする、とエドワードは口元をにやりと綻ばせた。
「俺の意見をねぇ……大佐にしては珍しいんじゃねえの?」
「珍しい?」
 エドワードは頷いた。二十九にもなる男が、しかも女遊びで有名な彼がまさかこんな質問をするとは誰が予想できただろう。気に入った女性が現れたら即、行動。これがロイ・マスタングという男の女性への接し方ではなかったのか。
 エドワードは信じられない気持ち半分、からかいたい気持ち半分でロイに言った。
「だってさ、いつも言ってるじゃねーか。“おぉ……これはこれは素敵なお嬢さん、今夜は私と一緒に夕食でもいかがですか?”ってな」
「……」
 ロイが黙り込む。エドワードは期待に胸を膨らませた。思い当たることは一つしかない。それ以外考えられなかったのだ。
「それとも何だね。これはもう本気の恋なのかね? 焔の」
「やかましい!」
 ロイの口調を真似ていうエドワードに、図星だったのだろう、ロイは顔を真っ赤にして叫んだ。
 エドワードはソファの上で笑い転げてしまう。久々に腹の底から笑える話をきいた、とエドワードは楽しくてしょうがなかった。
 あの大佐が、まるで十代の少年のようにみえる。
 好きなら好きだと言えばいい。結論から言えばそうなるけれど、それを躊躇うということは、彼のなかでいつになく純粋な恋心とやらが育まれているせいだろう。
 十代である自分と何ら変わらない心を彼も持っている。エドワードは内心嬉しくもあった。男同士、共感できる部分があるということなのかもしれない。
 腹を抱えて笑うエドワードを横目に見やりながら、ロイは相談する相手を間違えた、とでも言いた気な苦渋の表情を浮かべている。
 そんな彼を見て、エドワードはますます笑いを堪えることができなくなった。



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