“あなたに触れたいと思ってもあなたに理由もなく触れることはできないのです”
“君に触れると君はどうしてそんなことをするのかと咎めるように私を見上げたね”

「ホークアイ中尉! マスタング大佐が撃たれました!!」

 二人の間を隔てる壁はあまりにも分厚すぎた。
 その壁が彼の盾になってくれたのならどんなに良いだろう、とホークアイはこの時思っていた。
 部下からの知らせは、彼女の精神を麻痺させた。ドアを勢いよく開けて司令部の外へ飛び出す自分を冷静に見つめているもう一人の自分を感じてしまうほどだった。
 ハボック、ブレダ、ファルマン、フュリーは、今日は定時あがりだから、この時司令部には居なかった。後になって分かったことだが、彼らへの連絡は司令部に残っていた部下がしてくれていたらしい。
 ホークアイは車に乗り込んで病院へと向かった。助手席には愛犬のブラックハヤテ号がおとなしく座っている。ハヤテ号はホークアイが部屋から駆け出した時 に一緒に付いて来たのだった。ホークアイを心配してのことだったのだろう。時折彼女の方を見ては、ハヤテ号はクウウンと小さく鳴いた。
 時刻は20時過ぎ。時折ガス灯は目に入るが雨が降っているからか、司令部の敷地はどんよりと重苦しい空気が立ち込めて真っ暗な闇に包まれている。そこを 横切って、公道へ出た。彼女は強くステアリングを握り締める。生きた心地がしなかった。ハンドルを握ってはいても、その感覚さえも無い。彼に無事でいて欲 しい。ただそれだけを繰り返し願った。

“あなたに触れることは許されないのかもしれませんが……”
“君に触れることは許されないのかもしれないが……”

 二人の間を隔てる壁はあまりにも分厚すぎた。
けれど。その壁が壊れないことを望みながら、その壁を壊すことを切望していた。


“でも……”  “しかしだね……”
“私はあなたに……” “私は君に……”


““触れたい””





君に触れたい






「ホークアイ中尉……」
 ロイは雨の降る外を見つめながら窓の傍に立っていた。
 左手には包帯が巻かれていたが、彼は何事も無かったかのようにその左手で頭を掻いていたりする。
 ホークアイが病室に着いた時、彼はそんな風だった。すぐにでも退院できそうな様子である。
 ホークアイは全身の力が一気に抜けた。彼女が想像していたのとは随分と違っていたからだ。
 例えばこうだ。病室に入る前にドアには面会謝絶の札がかかっており、医師と看護婦から許可をもらってやっと病室に入れたけれど、ロイは意識不明の重態で 生きるか死ぬかの瀬戸際。軍服は彼の鮮血で真っ赤に染まり、彼の体から少しずつ温もりが失われてゆく……。そして医師はこう言うのだ。「今夜が峠で す……。ご家族の方に連絡は?」と。
 しかしそのような心配事は全て無になった。今となっては馬鹿馬鹿しいとさえ思えるほど心配し過ぎていた自分に彼女は嫌気が差す。
「それにしても、我々の部下は大げさだな。銃弾が掠めただけなのだが、どうも私は撃たれたことになっているらしい」
 ロイの言葉に全くその通りだとホークアイは思った。自分も確かに“マスタング大佐が撃たれました”と聞いたからだ。
「それで、大佐に発砲した犯人は……?」
 こんな風に彼に問いかけることになろうとは思っていなかった。
「ああ。消し炭一歩手前だ」
 彼の言葉は、彼自身の手で犯人に手を下したことを意味していた。発火布という特別な布で出来た手袋をはめて、パチン、と。
「それより、病室に犬を連れ込んでも良いのかね?」
 彼の視線は彼女の足元におとなしく座っているブラックハヤテ号へと向けられた。
 彼女はそこで「あ」と小さく声を上げた。やっと自分の周辺に気を配る余裕が彼女には出来た。確かに病室へ犬を連れてゆくのは咎められて然るべきである。しかし彼の病室へと全速力で走って行った彼女にとっては、そのことに気付く余裕も無かった。
 また、我を失い一心不乱に病室へと走る彼女に声をかけることも病院の人間には出来なかったのだろう。まだ誰にも注意されてはいない。
「そう……ですね。一度外に――」ホークアイがそこまで言いかけたところで、「いや、待て」と、ロイが彼女の言葉を遮った。
 ロイはハヤテ号に近付き、そしてしゃがみこんだ。するとハヤテ号もロイに近付く。ロイを見上げた後、すぐ目の前にあった彼の腕に巻かれた包帯をハヤテ号は舐め始めた。ロイは擽ったそうに微笑む。
 いつしかハヤテ号は片手では抱き上げられないほどに大きくなっていた。ハヤテ号の成長は、ロイもホークアイも間近で見てきた。子犬だったハヤテ号は、今はこんなに大きくなった。時は確かに流れ、止まってはいなかったのだ。
「すまんな。今日は抱き上げてやれない」そう言いながらロイは苦笑しハヤテ号の頭を撫でてやった。
 ロイはそうしながら、ハヤテ号の隣――その場に立ち竦んだままの彼女を見上げた。その時ロイは驚きに目を見開くこととなった。
 床に一滴。それは彼女の瞳から零れ落ちたもの……。頬を伝ったそれは次から次へと重力に逆らうことなく床へ引き付けられた。

 ホークアイは――泣いていた

 彼とハヤテ号のやり取りに今まで張っていた緊張の糸が切れてしまったのだった。
 ロイと愛犬の戯れは常に行われていたことだ。しかしその日常さえも失ってしまうかもしれないと病室に入る直前まで胸を震わせていたホークアイにとっては、今あるこの光景さえもかけがえの無いものだと感じるには十分だった。
 安堵と共に零れ出した涙は止まることを知らなかった。ホークアイは心の中で何度も、彼が無事で良かった、良かった、と繰り返していた。
「中尉……?」
 ロイは立ち上がり、彼女の前に立った。彼女は彼から目を逸らした。ホークアイは自分の迂闊さを恥じ、自分が泣いているのを認めたくないのもあってか、彼女は彼に涙を見せないように俯いた。
「全く、あなたという人は……」震える声を必死に抑えて精一杯の強がりを彼女はしてみせる。「無事なら無事だともっと早く連絡して下さい」
「君への連絡は部下に任せたのだがね」
 ホークアイは震える唇を噛んだ。何か言葉を返したくても、今言葉を口にすれば声が震えていることが彼に伝わってしまう。震える体を落ち着かせるように、 彼女は静かに呼吸を繰り返した。頬は止め処なく溢れた涙ですっかり濡れてしまっていた。しかし彼女はそれを拭わない。拭えば、泣いていることを認めたこと になるからだ。……今更ではあるけれど。
 瞬きを繰り返して俯けば、床には零れ落ちた雫の跡。彼女は嫌でも自分が泣いているという事実を思い知らされる。自分がこんなにも感情を表に出してしまったのは、全て彼のせいだった。
――ホークアイは彼を永遠に失うかもしれないと思った。
 彼の斜め後ろに立ち彼の背中を見つめることも、仕事をサボった彼を探しに歩き回ることも、雨の日にいつでも彼の盾になれるよう心を構えることも……。
 もう二度と無いのかもしれない……そう思うと、全てを失う恐怖にも駆られ、たまらなかったのだ。
 実際は自分が描いていたような状態ではなかったものの、こうして彼は左腕に傷を負っている。真っ白な包帯があまり光の届かない病室の中で映えて、彼の腕の傷をより強調しているかのようにも見えた。
 ホークアイは自分の足で立っていることが不思議なくらいに身体の力が抜けていた。それと呼応して、涙は止まることを知らない。泣くな泣くなと言い聞かせれば言い聞かせるほどそれは止まらなくなる。どうしようもなかった。
 そうして彼の視線から逃れるように視線を俯かせている彼女に、ロイはゆっくりと彼女の様子を窺いながら口を開いた。 言葉は命令口調ではあるものの、どこかいつもより優しく温かみを持ってホークアイの耳にそれは届いた。
「もっとしっかりしたまえ。君は私の副官だ。これしきのことでうろたえるな」
 ロイのその言葉にホークアイは心の中だけで彼に向かって睨み返したくなった。彼女にとって彼の安否は“これしきのこと”ではないのだ。今夜、彼は命の灯 火を消されてしまうところだったのかもしれないのだ。自分が知らないうちに、自分の居ないところで、彼の盾になることさえも叶わずに……。
 彼にもしものことがあったとき、自分は悲しまないわけないのだと……。
 それを彼は分かってくれていなかったのかと思うと彼女は悲しかった。――彼女が一番大事にしているのはロイだったから。
 しかしそれから続けられた彼の言葉に、ホークアイは伏せていた瞳を上げる。まるで誘導尋問のようだと彼女は思った。彼は知っていたのかもしれない……分 かってくれていたのかもしれない……と彼女は確信しながらも、もしかして分かっていたからこそ敢えてそんなことを言ったのか、と思うとどこか悔しい思いが 沸々と自身の中で沸き立ってゆくのを感じずにはいられなかった。
「それとも君には、それができない特別な理由でもあるのかね?」
「いいえ。そんな理由などありません」
 彼女は真っ直ぐ彼を見つめていた。
「そうか。ならば、何故泣く?」
「泣いてなどいません」
 彼女は意地でも瞬き一つしなかった。
「はっきり言ったらどうだ。私を心配してくれたのだろう?」
「そうですね。とても心配しました。とても……。でも、お元気そうで何よりでした」
 彼女はロイの問に感情を込めず淡々と答えた。
「君は本当に――」
 強がりだね、素直じゃないね、と心の中だけで呟き苦笑しながらロイは小さく息を吐く。
 しかし今はそんな彼女の態度も愛しいことに変わりは無かった。ロイは彼女に言った。いつも部下である彼女に言うような口調ではなく、彼女を自分の元へと呼び込むような甘い響きをこめて。
「君は私の部下である前に一人の女性だ。君が私の恋人なら私の胸の中で泣くことも許されるのだぞ?」
 ホークアイは一度大きく目を見開いて、それから彼の視線を避けるように彼から目を逸らした。彼女の瞳を伏せる様は酷く辛そうに見えた。
 彼女はゆっくりと左右に首を小さく振った。それは彼の言葉に対する拒絶であり、自分自身に歯止めを効かせる言葉を作り出す前置きだった。
 自身の手で彼との壁を崩しにかかる前にこの場から逃げ出さなくてはならないという使命感に駆られたかのように、彼女は震えそうになる声を唇に力をこめることで誤魔化し、言葉を押し出した。
「そんなことは許されませんから」
 ぐらつく踵に力を込めながら彼女は彼に踵を返した。
 彼の「中尉?!」と呼び止めるような声がしたがそれにも構わず彼女はその場から逃げ出すことのみを考えた。
 病室のドアまでの距離がやけに長く感じたが、やっとの思いでドアノブに手をかけるとひんやりとした冷たさが手を伝う。
 ドアノブを回し病室から出ると今度は全身に凍りつくような寒さが纏った。病室の内と外とではかなりの温度差があるようだった。内と外とを阻むドアは、ロイとホークアイの間にある冷たい壁を暗喩しているかのようだった。
 体中が痺れてゆくようだったが彼女は構わずそこから走り出す。コートも羽織っていないから凍て付くような寒さが彼女に突き刺さりながら何度も絶えず通り過ぎていった。
 病院の中は夜も更けてきたということもあってか人も疎らだった。外へ向かって駆け出すホークアイに何事か? と振り返る看護婦も居たが声をかけることは なかった。一度立ち止まって外へと通じる病院のドアを開けてからホークアイは病院の外……自分の乗ってきた車に逃げ込むようにしてまた走る。
 ――外はまだ雨が降っていた。
 何時しか激しく打ちつける雨に変わっていたけれど、ホークアイは濡れるのも構わず足を止めない。
 しかし車のドアノブに手をかけたところで彼女はそれを支えにその場に崩れてしまった。
 頭上からは冷たい雨が止め処なく彼女に降り注ぎ、彼女の身体から熱を奪ってゆく。彼女の頬にも何度も雫が伝ったが、それが天から降り注いだそれなのか、自身の瞳から零れたものなのか、ホークアイには分からなくなっていた。
 彼女は悟った。自分は自分の中で今までずっと溢れては止まらなかった感情を押し殺し、自分が本当に望んでいたこととは別の行動を取ってしまったのだと。 彼との間にある階級の壁が壊れてしまわないようにと支えながら、本当はその壁が崩れてゆくことを切望して拳に力を込めても思い切れずに力なく冷たい壁に今 まで手を付くことしかできなかったのだということを……。
 だが、今そんなことを悟ってもどうにもならなかった。これから先もずっと、自分はその壁を壊すことなく強化させながら、彼の斜め後ろに控えては彼の副官としての役目を果たさなければならない。
 それが軍での――彼の隣での自分の存在意義だと彼女は思っている。そしてそれが己に求められるべきものだということも……。
 彼女は、手をかけていた車のドアノブを支えにふらふらと立ち上がった。が、ドアを開けようとして彼女ははたとその動きを止める。
「ブラックハヤテ号……」
 彼女は病室に愛犬を置いてきぼりにしてしまったことに、自分がどれだけ余裕を失くしていたかを知った。迎えに行くことも今は戸惑われて、雨の冷たさに思考力を奪われながらもホークアイはどうしたものかと考えを巡らせる。
 明日また日が昇れば今日の事は無かったことにして彼といつものように向き合えるはずだと彼女は思っているが、今は彼の前で平然と振舞える自信がこれっぽっちも無かった。
 だから、病院のドアの前から愛犬の鳴き声が聞こえた時、彼女は安堵の息を吐くことができたのだ。ハヤテ号は自分を追いかけてきてくれたのだと思った。
 だが、実際は――彼女のことを追いかけてきたことに間違いはないのだけれど、ハヤテ号は連れて来てしまったのだ。彼女が今、最も避けたいと思っていた人物を……。
 ホークアイはハヤテ号の声のする方を振り返った。そして驚きに目を見開く。降り注ぐ雨に視界を邪魔されてはいたけれど、彼女にはハヤテ号の隣にいる人物が誰なのかすぐに分かった。
 ハヤテ号は彼のズボンの裾に噛み付いて彼女の元へと彼を連れて行こうとしていたのだ。
 彼はズボンにしがみ付くようにしてホークアイの元へと促そうとしているハヤテ号を見ながら苦笑している。それから彼はゆっくりと彼女に向き直って言った。
「……風邪引くぞ、中尉」
「大佐こそ……」
 ロイにも空からの雫は容赦なく降り注いでいた。雨の日は焔が出せない彼だから、雨に打たれて濡れているのを見ているとどうにも危うくて仕方ない。
 けれど自身に伴うかもしれない危険は全く省みずに、失いたくはない大切な女性のために彼は彼女の元へとやってきたのだった。
 彼女は両足が地面に張り付いたようにその場から一歩も動くことができなくなっていた。まるで彼の視線に絡め取られ動きを封じられてしまったかのようだった。
 二人を阻む、目には見えないけれど厚くて冷たい壁は確かにそこに存在していたが、二人の視線は確かに絡まり合い繋がっていたのだった。
 ――ロイの足元からハヤテ号が離れたのは、そんな時だった。
「ハヤテ号……?」
 自分の足元へ歩み寄ってきた愛犬をホークアイは視線を下ろして見つめた。
  普段から綿毛のようにふわふわとしている毛並みは雨に降られてすっかり濡れてしまっている。雨の降っているこの状況、いや、それよりもロイとホークア イの二人の今の状態がハヤテ号にとっては耐えられないものだったのかもしれない。クウウンと小さく鳴いて、ハヤテ号はホークアイのズボンの裾をロイにして みせたのと同じように咥えてみせた。
「え?」
 ぐいぐいとものすごい力で引っ張られてホークアイは驚いた。まさかロイだけでなく自分もハヤテ号によって引っ張られることになろうとは彼女は思いもしな かった。踏み止まろうとしても、子犬であった頃とは違いハヤテ号の力には到底適わなくなってしまっている。が、それでもその場に留まろうとしたホークアイ はハヤテ号の力に押されてその場で大きくよろめいてしまった。視線の先には大きな水溜り。彼女は目を固く閉じた。


「……ホークアイ中尉」
 何が起こったのか理解するのにホークアイは数秒を要した。
 肩には彼の右手が置かれている。右腕一本で彼は彼女の身体を支えていたのだ。
 肩にこもる温もりにホークアイはぶるっと身体を震わせる。冷たい雨に晒されていたからか、そこだけが熱を持って身体中にその熱がじわりじわりと広がってゆくようだった。
 ハヤテ号は満足したのか二人から少し離れたところにちょこんと座りこんでいる。どこかロイがホークアイを支えることを予測していたような節があった。そ うでなければあんなに強く彼女を引っ張ったりしないだろうし、それに――二人の想いを重ね合わせるためには触れ合うことが一番の近道なのだとハヤテ号は本 能的に感じ取っている風でもある。
 人の感情をよむことに長けているからこそ、二人を身近で見続けてきて二人の気持ちを敏感に感じていたからこそ、そのような行動を取ったのかもしれなかった。
「……はい」
 彼が彼女の名を呼んでから随分と間が空いていたけれど、ホークアイは彼に名を呼ばれたことを思い出して返事をした。肩にある温もりだけが異様に研ぎ澄まされている。雨が降っていても、焔が出せなくても、彼が熱を失くすことはなかった。
「君は一体、何に怯えているのだね?」
「……怯えてなど――」
 “いません”ホークアイがそう言おうとしたところで、肩に込められた彼の力がより強くなった。と同時に熱も上がる。肩から全身に到るまで溶けてゆきそうだった。
「こんなに震えてるじゃないか」
 肩に置かれた彼の手が背中に回された。彼がそうしたことで二人の間にある距離は、よりぐっと縮まった。
 彼の腕の中に納まることで彼女は自分が震えているのだということを自覚する。そしてその震えを止めてあげようとしているかのように彼の手に力がこめられているのだということも――
 ホークアイは彼の肩越しに空を見上げた。そこは漆黒の闇だった。あの時と――停電になったあの時と同じように、視線の先にあるのは暗闇だった。けれど、彼の温かさだけはこんなにも近く、より熱を伴って感じることができる。彼の温かさに全身が包まれているようだった。
 ロイの左手がホークアイの後頭部に回された。濡れた髪の上を撫でるように彼の手がそこに優しく置かれる。ホークアイは身体の震えが次第におさまってゆくのを感じた。
 彼女の頬に一滴涙が伝ってゆく……。瞳から零れ出したものがこんなにも温かいものだとは彼女は知らなかった。
 凍り付いていたものが熱を浴びて溶け出したように。彼女の心の中にある、自身で固く閉ざしていたものもゆっくりゆっくりと彼の温かさで溶け始めた。
 それは、二人の間にある厚くて冷たい壁なのかもしれなかった。その壁を壊したくても思い切れずに、冷たい壁に手を付くことしかできなかった彼女を――姿は見えるのに壁に阻まれて触れることの出来なかった彼女を――ロイは真正面から抱きしめることができたのだ。
 二人の間に壁は無かった。そこには熱に溶かされた残骸しかなかった。
 ロイの左手がホークアイの頬に触れた。
 彼女が瞬きをすると新たに伝った涙が彼の手を濡らしたが、それを彼は優しく拭ってやる。そしてそれを塞き止めるかのように、涙を拭うために添えられた指はそのままに、彼は彼女に囁いた。
「君は私の部下である前に一人の女性だ。君はすでに私の胸の中で泣くことを許されているのだぞ?」
 包帯の巻かれた左腕。暗闇にその白さが映えて痛々しい。包帯にじわりと染みこんでゆく雨の粒を恨めしく思いながら、彼女は彼の左手に自分の右手を重ねた。そしてそっと彼の手をとって静かに下ろすと、ホークアイは彼の胸に顔を埋め、そろりそろりと彼の背中に手を回す。
 それが、彼の問に対する彼女の答えだった。
 熱に溶かされて瞳から湧き出したそれが何度もホークアイの頬を伝った。もしかしたら永遠に失うかもしれなかった温かさ。
 その熱の中に今彼女はこうして存在している。
 ロイは背中に回されたホークアイの手に一瞬驚いたが、すぐに破顔し、お返しだと言わんばかりに彼女の背中に手を回し、強く彼女を抱き締めた。

  いつしか、二人に降り注ぐ雨が冷たく感じられなくなるほどに、二人が触れ合うことで生じた熱は、温かく溶け込んでゆくような熱へと変わっていた。


“あなたに触れるのに、理由はもう必要ではなくなりました”



FIN



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