窓の外が騒がしい。
 ロイは窓外の景色を睨みつけるようにして見た。外は豪雨だ。時折雷が鳴り、地面が揺れるような凄まじい音もする。
 暗闇に近いこのどんよりとした空模様を見れば到底そうは思えないだろうが、今は夕方と呼ばれる時分である。六時はとうに回っていた。
 重苦しい雲が空には立ち込め、幾重にも重なっているように見える。全ての雲が取り除かれるためには大層な時間を要されるだろう。
 つまり、雨の止む気配は今のところ皆無、ということだ。
「すごい雨ですね……」
 フュリーはブラックハヤテ号の頭を撫でながら窓の外を見上げる。今はほんのささやかな休憩の時間だった。
 それぞれの机の上にはコーヒーカップが乗っている。淹れたてのコーヒーは熱いようで、誰もまだ口を付けていなかった。
「湿気てきたなぁ……」とはハボックの言葉である。彼が銜えた煙草の先から薄っすらと白い煙が漂っていた。
 雨が降ってきた分、煙草も湿っぽいのだろう。しかし彼の言葉は、どうやら違う意味にも取られてしまったらしい。
「な、何っスか。大佐」
 ロイはジト目でハボックの方を見ていた。ロイは自分への皮肉のつもりなのだろうと、勝手に思い込んでしまったようだ。
 ハボックは勿論、そのつもりなど全く無い。雨の日となれば、色々情けないエピソードを思い出してしまうが故のロイの勘違いだった。
「いや」ロイは自嘲気味に笑う。ハボックを問い詰めるほど、凝り固まった性格でもない。随分とさっぱりしたところも彼は持ち合わせているのだ。
 ハボックはふう……と大きく煙を吐き出した。ロイの機嫌を損ねずにすんで安堵の息を吐く。
 そうして何気なく煙の行方を目で追っていると、窓の外が突然眩しく光った。
 それからすぐに轟音と呼べるだろう凄まじい音と地響きが起こり、視界が途端に真っ暗になった。
 まだ夕方ではあるが、ここ最近は日の入りが早い。停電したことで視界が悪くなったのは確かだ。
 辺りはシーンと静まり返り、窓に打ち付けられる雨の音がより近くに感じられる。
「停電か?」
「参りましたな」
 ブレダはハンカチで額に浮いた汗を拭き、ファルマンは書類への記入をそこで一旦停止した。
 ハボックはまだのんきに煙草を吹かしている。驚き慌てたところで、どうにもならないことは分かっているからだ。
「誰か、灯りになるものを持って来い」
 部屋のどこからかロイの声が聞こえてくる。停電したためか、誰がどこにいるのか距離感がとり難くなっていた。
 ハボックはポケットからライターを取り出した。シュッと音がして小さな炎がそこに現れる。少しだが辺りが見渡せるようになって皆がほっとした。
 それからは皆がその小さな炎を頼りに、灯りとなるものを探し始めた。ロイはというと、机上で暫し肘を付いて考え事をしているようだったが、突然ガタッと椅子の音を派手に響かせてその場に立ち上がる。
「……ちょっと行ってくる」
 ロイの言葉に、“どこへ?”と皆は一瞬不思議そうな顔をしたが、その言葉を口にする前に彼が何をしようとしているか分かってしまったから、
「お気をつけて」と一言告げるだけにしておいた。……きっと、“彼女”のことを心配しているのだろう。
「大佐!」障害物に当たらないように出口へと向かっていたロイに、ハボックが声をかけ懐中電灯を手渡した。
「今のところ、見つかったのはこれだけッス」
「そうか。では、遠慮なく借りていくぞ」

 ハボックから懐中電灯を受け取って、ロイはオフィスのドアを開けた。面倒なので、ドアは開けたままにして廊下へと出る。
 彼は懐中電灯のスイッチを入れて、辺りを見渡した。窓の外を見ると、雨合羽を来た者達が大慌ててで走っているのが見えた。
 電気の復旧を急がせているのだろう。あともう暫くの辛抱だな、とロイは思った。……復旧に何時間かかるかは分からないけれど。
 そのまま足元に気を付けながらロイが歩を進めていると、二階へと続く階段の前で、懐中電灯の灯りが断続的になり始めた。
 まるでパカパカと光る、車のテールランプのようでもある。擬人法を使ったとすると、“懐中電灯の元気が無い”。
(電池切れ、か……?)
 灯りは点滅を繰り返す。暫し明るく光ったかと思えば、しぼむように光の届く範囲が狭まってきていた。
 この懐中電灯も、そう長くは持たないだろう。早く“彼女”を見つけてオフィスに戻らなくては……とロイは少々焦り始めた。
 階段を駆け足で駆け上がり、通信室の前まで来たところで、その部屋のドアが開いた。
 懐中電灯の光をそこに向けると、ぼんやりと人影が浮き上がる。見慣れた姿形。懐中電灯の弱い光でもロイには確かに分かった。
「ホークアイ中尉」
「大佐?」
 少し驚きをみせたホークアイの声がロイの耳に届く。ホークアイに懐中電灯の光を向けると、彼女は眩しそうに片手を挙げた。
 ロイは肩の力が抜けてゆくのが自分でもよく分かった。彼女の姿を捉えることができて安心したのだ。
「大丈夫だったかね?」
「ええ。通信機器に異常はありません」
 ロイはホークアイの答えに苦笑する。彼女らしい答えといえばそうなのだが、自分は通信機器の心配など微塵もしていない。
 通信機器の心配をするならばそれらの確認は部下に任せているだろう。心配している対象がホークアイだからロイは一人でここまでやってきたのだ。
「いや……。君が、だよ」
 優しい声で紡ぎ出された言葉に目を瞬かせて、ホークアイは小さな光の中でロイに気付かれるか気付かれないかの微笑を浮かべた。
「大丈夫ですよ、大佐」
「そうか」
「大佐こそ、通信室に何か用事でも?」
「いや。ここに用事などない」
「では、何か?」
「……」
 ロイは少々頭痛がした。……本当に気付いていないのだろうか? と考え込んでしまう。
 自分がここへやって来た理由はただ一つ。彼女を迎えにきたのだ。ホークアイがここに居なければ、この場所に来ることも無かっただろう。
 気付いて欲しかったといえばそうだが、気付かれたら気付かれたで自分の気持ちをも見透かされてしまいそうだから、このまま何も言わずにいる方が得策だろうとロイは考える。
「行くぞ、中尉」
 彼女の質問には答えずに、ロイはホークアイの手を引いた。
 辺りは真っ暗闇だからこうして彼女の手を引いて歩いた方が何かにつまずく心配もないので安心である。
 けれど日常では有り得ないことだ。まるで恋人同士のようにこうして二人手を繋ぎ、一緒に歩くことなど……。
 ホークアイは明らかに彼の手に戸惑っていた。それをロイは分かっているのか、彼女の手を離さないようにぎゅっと握り締めた。
 ロイはホークアイを振り返らずに、黙々と廊下を歩く。ホークアイも彼の手に引かれながら無言で彼に付いて行った。
 いつもより執務室への道が長く感じた。暗闇の中、たった一筋の懐中電灯の光を頼りに慎重に歩いているからなのか。それとも、彼女とこうして一緒にいる時 間をもっと引き延ばしたくて、速度を極端に落として歩いているからなのか。しかしどちらにしても暗闇の中を進むのだからやはり距離感が麻痺しているのだろ う、とロイは思うことにした。
 すると、階段の前に差しかかったところで懐中電灯の灯りが突如消えた。一筋の光のみを頼りにここまで来たが、電池の寿命がとうとう尽きてしまったらしい。
 二人は黙ったままだった。辺りは暗闇。目を開けているのか閉じているのかも分からなくなるくらいの漆黒の闇。耳鳴りがしそうなほどの静けさの中で、互いに繋ぎ合っている手の感覚だけが異様に研ぎ澄まされていた。
 ロイはホークアイの手を引いた。抑えの利かない何かが己の中で弾けて堪えられなくなったかのように彼は彼女の手を引いた。
 ロイが前に進んだのだとばかり思っていたホークアイは彼の手に引かれて前へ進み、ロイにぶつかってしまう。
「すみません、大佐」
 ホークアイはロイの背中にぶつかったのだとばかり思っていた。しかし背中に回された手に、それは自分の思い違いだったということに彼女は気付く。
 彼女がぶつかったのはロイの胸元。そして今ロイは無言のままホークアイを抱きすくめている。
 ロイはホークアイの肩に顔を埋めて抱き寄せる腕に力をこめた。ホークアイが一瞬呼吸を止めたのがロイには分かった。
 ロイは目を閉じる。そうすることで、彼女の温もりも香りも柔らかさも、研ぎ澄まされた感覚のなかでより感じることができた。
 ホークアイはそのままじっとしていた。ロイの身体を押し退ける力さえも失くしていた腕はだらりと重力に逆らわず垂れているだけ。いや、その前に。押し退けようともホークアイは思っていないらしかった。まるで彼の行動に承知しているかのように、身動ぎひとつしない。
 互いの息遣いだけが間近で聞こえ、二人とも全く声を発しなかった。そんな中、最初に言葉を発したのはロイだった。
 彼はその沈黙を緩やかに破ってゆっくりと言葉を紡ぎ出した。自分の胸の内を切々と語るような口調だった。

「謝らなくてはならないのは、私だ」

 ロイの声の低さにホークアイは身体を一瞬だけ震わせた。
 抱きしめられる腕に力が込められれば込められるほど、身体中が痺れて力が抜けてゆくようだった。
「大佐……?」
「離したくないと言ったら、君は困るかね?」
 ホークアイは目を見開いた。それから視線を下へ下へと向けて小さく睫毛を震わせた。視線の先にあるのは闇だった。
 電気の復旧していない廊下には誰もいない。まるで二人だけそこに取り残されたような、ひっそりと閉ざされた空間のようでもあった。
 ホークアイは答えを見つけることができなかった。彼の問に返せる言葉を彼女は持っていなかったのだ。
 何も答えないホークアイにロイは静かに苦笑を浮かべて、彼女へと手を伸ばした。
 ――ホークアイは意識して呼吸をひとつした。
 抱き寄せられる腕の力は緩まり、彼の腕の中から逃げ出そうと思えばいつでも逃げ出せそうではあった。
 けれど、まるで金縛りにかかったかのように身体が動かない。少しでも身体の力を抜いてしまえば倒れてしまうのではないかと思ったほどだ。
 ところが彼女のそんな心配を他所にロイはホークアイに触れた。暗闇だから手探りである。ゆっくりと彼女の耳を伝って、彼は彼女の頬に触れた。
 暫し彼女の頬を温めたあとで、まるでそこにあることを確認するかのように、彼女の唇を彼の親指がなぞった。
 途端、ホークアイは彼の腕から逃げ出したくてたまらなくなった。……何かが崩れていくような恐怖が彼女を震わせる。
 それは、二人の間にある確かな壁だった。
 大佐と中尉という肩書きに階級の違い。二人の関係は上官とその部下。
 それら全てを彼は今、取り崩そうとしているのだった。交わらなかった二つの間にある障壁を取り除いて重ね合わせるかのように……。
 彼がすぐ近くにいることを伝える空気の振動。確実に経過する時間の波。彼は一時の戯れのつもりなのか、それとも――
 そこまで考えて、ホークアイはふらつく踵に力をこめた。ほんの少しだけ後退することができた。
 そうすると。彼の方も何を思ったのかすっと彼女から離れた。しかし彼が自分から離れてくれたことにほっと安堵の息を吐く前に、静かな廊下に響く鳴き声。
 ワンッ! ワンッ!! と聞き慣れた鳴き声が足元の方から聞こえた。
「ブラック……ハヤテ号……?」ホークアイが愛犬の名を口にすると、その犬は彼女の声に応えるようにもう一度鳴く。
 ワンッ! その声をまるで合図としたかのように、今度は電気がパカパカと点滅を繰り返して灯り、暗闇だった廊下に光を与えた。
 電気の復旧は予想以上に早かった。視界が突然明るくなって、ホークアイは眩しそうに瞬きを繰り返した後、愛犬を見やる。
 ハヤテ号はロイの足元にいた。しかも彼のズボンの裾を引っ張るようにして咥えていたのだ。
 彼が自分から離れたのはきっとハヤテ号に引っ張られたからなのだろうとホークアイには分かった。まるで自分の気持ちを読み取ってくれたかのようなハヤテ号のその行動に、彼女は救われた気持ちになる。
 ロイはというと、そんなハヤテ号を咎めることもせずにしゃがみこんでハヤテ号の前で両手を広げた。
 ハヤテ号はまだまだ子犬だ。身軽なハヤテ号は暫し彼の表情を窺ってから彼の胸元に飛び込んだ。
「ドアを開けたままにして出てはきたのだが……まさか追って来るとはね」
 頭を撫でながらハヤテ号の身体を支えて、ロイは立ち上がる。彼の肩から顔をのぞかせたハヤテ号とホークアイは目が合った。
 するとハヤテ号はそこから飛び降りてホークアイの足元へ駆けて行った。一緒に行こう、と言っているかのように今度は彼女のズボンの裾を咥える。
 ホークアイは腰を屈めてハヤテ号の頭を撫でた。ハヤテ号が彼女によじ登ろうとしたので彼女はハヤテ号を抱き上げる。
 一部始終を見守っていたロイは、前へ進みながら一度ホークアイを振り返り、
「行こうか、中尉」
 そう言葉を発すると、執務室へと向かって再び歩き始めた。ホークアイはハヤテ号を抱き上げたまま歩き出す。
 彼の斜め後ろ。それは彼女にとって固定されたといってもいい位置だ。並んで歩くことは無いままに二人は執務室へと向かう。
 二人の足音だけが廊下に響く。二人は何も言葉を発しなかった。灯りを失った廊下での出来事は二人の胸の内に仕舞い込まれた。
 ホークアイは自分の体から彼の温もりが少しずつ消えてゆくのを感じた。廊下の冷たさがそれらを奪ってゆくのだ。
 抱きしめられた時の彼の温もりは心地良くもあり、自分の感情に歯止めがきかなくなる恐怖を覚えさせるものでもあった。
 けれど。彼女は心の奥底ではそれを望んでいたのだ。そうでなければ抱きしめられた時点で彼を押し返しているだろう。
 彼の温もりはそんな彼女の心を覆った霧を晴らそうとしていた。だから唇に伝った温かさに彼女は困惑したのだ。
 この唇から感情を剥き出しにした本心を吐露してしまいそうになる。そんな恐怖が彼女の全身を伝っていった。
 そしてそんな彼女の心情を知ってか知らずか二人の間を隔てていた上司と部下という壁を、ロイは壊そうとした。
 自身の親指でなぞった彼女の唇に自分のそれを重ねることで……。
 ホークアイはハヤテ号の頭を撫でた。ハヤテ号は気持ち良さそうに目を閉じて彼女の胸元に擦り寄ってくる。
 ――甘えん坊の愛犬はロイを追ってホークアイを探しに来た。
 彼女の元に辿り着いたハヤテ号は彼女の気持ちを知っていたかのようにロイを止めにかかった。
 犬は人の気持ちを敏感に感じることのできる動物だという……。彼女の戸惑いをハヤテ号は間近で感じていたのかもしれなかった。
 時が来れば、きっと。ロイのズボンの裾を咥えて引っ張り、ホークアイの元へと彼を導くのだろう。
 ロイの気持ちもホークアイの気持ちも、ハヤテ号は誰よりも近く敏感に感じ取っているようである。二人が二人の間にある壁を本当に壊したいと思ったその時に、ハヤテ号は二人を繋ぐ架け橋となるに違いなかった。
 執務室のドアが開いた。
 中から懐かしい声が聞こえてくる。部屋の中にいる彼等の声が懐かしいと感じてしまう程、彼女にとってはロイと一緒にいる時間がとても長く感じたのだった。
 ホークアイを部屋へ招き入れるのはロイである。ドアの取っ手に手をかけドアを支えて彼女を部屋の中へと入れる。すれ違う時に彼が見せた表情は上官のそれに戻っていた。
 彼と彼女の間にある壁は厚い。……が、壊そうと思えばすぐにでも壊れる脆い壁。
 時が来ればその壁も風化し、より壊しやすくなるだろう。その時を待つか作り出すかは、二人の問題だった。
 部屋の中に入ったところで、ホークアイはハッと気が付いた。ロイが通信室の前にいた理由を今更ながらに。彼に導かれてここに戻ってこれたことで、やっと……繋がったのだ。と同時に。彼の優しさと彼の想いに彼女は自身の中で溢れゆく感情を持て余す。
 ホークアイはロイを振り返った。
 今はまだ部下としてしか接することはできないけれど。ハヤテ号を胸に抱きしめて、言った。

「迎えに来て下さって、ありがとうございました。大佐……」



FIN



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