リザはその場所を“たんぽぽの咲く土手”と言っていた。
 勤務時間外に、リザがその場所へ訪れるのは決して珍しいことではない。早々に仕事を切り上げて、こうして今リザは、愛犬のブラックハヤテ号と一緒に、その土手で寝そべっている。
 リザは空を見上げた。ゆっくりと雲が移動し、昼間は真っ白だったそれらは紫と青を葺かしたような色をしている。空に溶け込んでゆくようなそれらを目で追いかけてから、映像として記憶を焼き付けるように一度瞳を閉じた。
 顔を横へ向けると、蝶々を追いかけるハヤテ号と、咲いたばかりなのだろうたんぽぽの花が一輪。
 季節は巡る。今ここに咲いているその花が、春の訪れはもうすぐそこなのだということをリザに知らせてくれていた。
 暫し目を閉じる。川の流れとカラスの鳴き声。そして度々草の上を踏みしめるハヤテ号の足音。そこには銃声も人の声も無い。自然の奏でる音が、リザの疲れた心身にじわりと染み込んでいった。
 この場所に来ると安心する……と、上官のロイ・マスタングにだけ、このことをリザは話したことがあった。

 ふと、土手の上方で車の止まる音が聞こえた。この音には聞き覚えがある。おそらく軍用車だろう。……誰かが自分を迎えに来たのだろうか。何か緊急を要す ることでも起きたのだろうか。いくつかの選択肢を脳裏に散りばめて、上体を起こす。車のドアの開く音と閉まる音。それから人の足音が聞こえた。
 自分がこの場所に居るだろうことを予測できるのは、おそらくロイだけだ。
 彼に言われて部下の誰かが自分を呼びにきたのかもしれないと彼女は思い始めていた。しかしそう考えてから、リザは寂しさに似た感情が己の中で少しずつ沸き立つように生じてゆくのを感じた。
 この場所は、自分とロイだけしか知らない。他の誰にも知られたくはないと彼女は思っていたのだ。宝物を独り占めするような子供染みた感傷だとは分かっていても……。
 ちょうどリザが見上げたところにはオレンジ色に眩く光る太陽があって、誰がやってきたのかは眩しくて見えない。片手を額に当て、太陽の光を遮ると、少しだけはっきりと見えた。
 リザは、長年会えなかった恋人にやっと会えたかのような、眩暈がしそうな甘美な想いに酔いそうになった。
「やはりここに居たか。ホークアイ中尉」
 そこに居たのは彼女の上官であるロイ・マスタング大佐だった。
 自分と彼しか知らない“この場所”つまりは、二人だけの知る“秘密の場所”を彼は守ってくれていたのだ。
 彼はゆっくりとリザに近付いてくる。彼の後ろにある夕陽が眩しくて、彼がここに来てくれたことが素直に嬉しくてリザは目を細めた。
 ロイはリザの隣に腰を下ろすのかと思えば、彼女の背後に回り、彼女を優しく抱きしめた。
 彼の行動が予測できなかった彼女は、ふるっと一度だけ背中を震わせた。
「大佐、お仕事は……?」
「今日の分は全部済んだ。一緒に帰ろうと思っていたのだがね」
「……」
「早々に仕事を切り上げて帰宅したと聞いたから、きっとここだと思って、来たのだよ」
 どうして彼には分かってしまったのだろう? そう思いながらも、彼女は背中から伝ってくる彼の温もりに安心して目を閉じた。
 そうすると、よりいっそう彼の温かさを感じることが出来る。まるで太陽の光の下で干したばかりの布団に体を預けた時のように……。
「随分と体が冷えているな」
 抱きしめる腕の力を強めて彼は言う。リザは目を閉じたままだった。何か言葉を告げようとするけれど、口が重くて開かない。
 疲れが一気に押し寄せてきたのだろうか。彼の腕の中で温められると、その心地良さ故に夢の中へと誘われてしまいそうだ。
 いや、もう既に自分は夢の世界にいるのかもしれない。彼の唇が項に触れ、髪に触れ、頬に触れる。彼の温かさがここにある――求めていたものがすぐ傍にあるなんて、本当に夢なのではないだろうか? と……。
 リザはたんぽぽの花を脳裏に浮かべた。たんぽぽの花は春の訪れを静かに感じ、そして、春を待っている。まだ寒さの残るこの土手で、花開き、今か今かと春を待っている……。
 自分もたんぽぽの花と同じだろうか?
 自分は――この場所に彼が来てくれることを望んで、彼の温かさをこの場所で待っていたのだろうか……?
 リザは何故この場所に心惹かれるのか分かったような気がした。

 冷たかった体は彼に温められた。そしてゆっくりと抱き上げられる。
 ワンッ! ハヤテ号が一声鳴く。リザをどこへ連れて行くのかと彼に問いかけているようにも聞こえた。
「今日は私が送っていくよ、ハヤテ号」
 そう言いながら彼は歩き出す。彼が地に足を踏みしめる度に体が彼の動きに合わせて揺れた。彼の声が間近で聞こえた。
「ん? こんなところにタンポポの花が」
 きっと自分が見つけたのと同じ、たった一輪のたんぽぽの花だろう。
 踏まないように気をつけて……という意味をこめて、僅かに残る意識の中で彼女は彼のシャツを握り締めた。
 彼が微笑んだのが空気の振動を通して彼女に伝わった。
「……今度来るときは、もっとたくさんタンポポの花が咲いていると良いね、リザ?」
 彼の唇が彼女の額に触れる。それは花弁がふわりと舞い落ちたかのようでもあった。
 優しく温かい彼の温もりが、降ってくる……。
 リザはゆっくりと意識を閉じる。彼の腕の中で。この温かさを感じていられるうちに、眠ってしまいたい――と。
 リザは無意識のうちに彼のシャツを握り締めていた。
 ほんの少し冷たい、けれど、ほんの少しだけ温かさを含んだ風が、たんぽぽの花弁を揺らした。


(待ってます)
 春の訪れと、たんぽぽの花を。
(待ってます)
 貴方の温かさと抱擁を――



FIN




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