「今日のロイさん、何だか変ですよ?」
 ロイは腕に手を絡めてきた女性の声で我に返った。今日一日を振り返っている間に結構な距離を歩いていたようだ。眼前には車が行き交う交差点。どうやら自分はそれを無視して渡ろうとしていたらしい。
 腕に絡まってきた手は、それを留めるためのものだったのだろう。たとえもし、それ以外になにか意図されたことがあったとしても、何の感情も湧かない。いつだって、そうだった。
「……変、かな」
「……何か考え事でも?」
「いや、そんなんじゃないよ」
 口から出た言葉と心の中の言葉は全く逆だった。今日の自分は変だ。何もかもがおかしい。そしてその原因は、分かりすぎるほど分かっている。考えたいことは山のようにある。現に今も、隣にいる女性の存在さえも忘れて物思いにふけっていたのだ。
 車が止まったので、歩を進める。腕に絡みつく女性の手に幾度か思考を邪魔されたが、自分の頭の中を占めているのはここにいる女性ではなく、別の女性だった。

 ――ホークアイと出会ってから随分と経つ。まるで少年のように髪を短くし、銃を担いで駆け回っていた少女もいつしか二十代半ば。今では少女というよりも 女といった表現の方が適っている。しかし、ロイの中では出会ったそのときのままに彼女はまだ少女だった。男を知らない、まだ女として目覚めていない少女の まま……。
 もちろん自分の知らないところで女になっているのではないかと不安になったこともある。が、ホークアイから漂う雰囲気だとかにはそれといったものは感じ られなかったし、男の影も全く見られない。だから自分は安心していたし、そのままズルズルとここまできてしまったのだと言えるのかもしれない。
 彼女と自分の関係を位置付ける言葉は……? 結論は急ぐべきではない、それがロイの考えだった。
 しかし今日、ひたすらに押し隠していたものがハボックに見破られているのだということを知った。いつかは日の光を浴びることになってしまうだろう想いだったのかもしれないが、いざそのときを迎えてしまうとなるとどうすればいいのか分からなくなってしまう。
 ――彼女と出会ってから、あまりにも時が経ち過ぎてしまったがゆえに……。
 言うなれば、自分と彼女は、同じ方向に向かって進んできた二つの直線だった。
 交わることのない並行線が交わるためにはどうすればいいのだろうとロイは考える。これまでずっと直進し続けてきた二つの直線が交わる術は……。
 解くには不可能にも思えるこの問。だが、ロイは強引にも答えを導き出した。
 一方がもう片方の直線に向かって進めばいつかは触れることができる。そして二つの直線は近ければ近いほどすぐに触れ合えるのだ、と……。
 自分と彼女との距離は、誰の目から見てもすぐに触れ合えるほどの近さにある。それは自信を持って言えることだ。これまでがそうであったように、自分と彼 女との間にある確かなひとつの関係――彼女は最も信頼できる、自分の副官なのだ。だから、彼女の心へ辿り着くのは、決して不可能ではないとロイは思うの だ。
 何度も脳裏を過ぎるのはハボックの言葉。今の自分に一番必要なことをハボックは教えてくれた。それは今までに行動に移すことはなかったもののずっと考えてきたことだった。
 自分の感情の赴くままに、彼女に全てを伝えることができたなら……と。
 触れ合えた後、擦れ違うか、ひとつの直線になり得るかは、わからない。けれど今は、ただひたすらに彼女に向かって進んでゆけば良いのだ。

『……そろそろ素直になったらどうですか?』

 ロイは突如歩みを止めた。腕に絡まっていた手がすっと離れる。何に引き止められることもなく、何に縛られることもなく、自由になれたような気がした。
「……ロイさん?」
「用事を思い出したんだ。すまないが、今日はこれで失礼するよ」
 自分が今どうしたいか、それは偽りのない自分の心が知っている。素直になれというのは、自分の心に対してだ。
 ロイは迷うことなくホークアイの自宅へと足を向けた。


 玄関のランプが目に眩しい。ロイはドアの前で佇んでいた。絶えず零れる白い息に、冬を感じる。
 息苦しさを覚えるほどに、心臓が今にも破れそうな音を立てていた。車で行くほどの距離を走ったからなのかもしれないが、たぶんそれ以上の理由があるのだろう。――このドアの向こうには彼女がいる、そんな緊張感に伴うものが……。
 ロイはドアに拳を当てた。ノックをしようとして一瞬躊躇う。
 彼女は風邪を引いているのだ。もしかすると薬を飲んで寝ているのかもしれない。彼女の睡眠を妨害してしまうことになりはしないだろうかとも考える。
 けれど今は、ただ彼女に会いたいという気持ちの方がより勝っていた。この機を逃したら、次はもうないような気さえする。今しかないのだと、焦る気持ちがロイの背中を押した。
 意を決してコンコンコンとドアをノックする。しばらくしてドアに向かって歩いてくる足音が聞こえてきたが、その音はドアの前でピタリと止んでしまった。かわりに、カチャ、と彼女が愛用の銃に手を伸ばしたような音がこの静けさの中に響く。
 訪問者を怪しんでもしかたのない時間である。こんな時間に誰だろうと訝しんでいるに違いないと思い、ロイはドアの向こうにいるだろう彼女に声をかけた。
「ホークアイ中尉、私だ」
「……た、大佐?」
 少し驚いたような響きのある彼女の声にロイは苦笑する。ホークアイの自宅へ赴くことが彼女には予想できるはずもないことを、ロイ自身もよくわかっているからだ。
「お待ちください」と掠れた声が聞こえて、鍵が外れた音がし、ドアが開いた。部屋の光をほんのりと背に浴びているホークアイの姿は、いつものそれと違って 随分と弱々しく見えた。小さな咳が彼女の肩を揺らしている。普段は軍服で隠れているそれが、今にも砕けてしまいそうなほどに小さかった。
「すまない。起こしてしまったかね?」
「いいえ。一時間ほど前から起きていましたから……」
「……そうか」
 暫くと表現するには長すぎる、一瞬と表現するには短すぎる間。息遣いを意識できるほどの無音の間があった。零れる息は変わらず白く、彼女にもそれが見えていたのだろう。上官を気遣う彼女の声が、優しく温かみをもって、この寒夜の中に溶けこんできた。
「大佐、今お茶を淹れますから、あがってください」
 ホークアイはドアを今以上に大きく開いて、ロイを家の中へと促そうとする。しかしロイは、ドアノブを握る彼女の手に自分の手をそっと重ねることでそれを制した。
「すぐに帰るから気にしないでくれたまえ」
 彼女が心配するほどに体は冷えてはいないのだ。その証拠に、今まで家の中にいた彼女の手を温めてやれるほどの熱を自分は持っている。それよりも、彼女の冷たすぎる手に心配が募った。
「中尉、体調は良くなったかね?」
「はい。明日は出勤できると思います。大佐、今日は……すみませんでした」
「いや、気にすることはない。人間誰だって風邪を引く」
 そう言ってロイが微笑を浮かべると、ホークアイもつられるようにして穏やかな表情になった。けれどすぐに申し訳ないという気持ちが先立ってしまうのか、口元が引き締められる。
 それから、ふと何かを思い出したように、彼女はロイにこう問いかけてきた。
「ところで大佐……。今日は確か……ご予定があったのではないですか?」
 そこでロイはとうとう返答に詰まってしまった。
 ロイの副官である彼女は、ロイのスケジュールをあらかた把握している。誰と一緒に、というところまではわからなくとも、今夜は出かける予定が入っている、ということくらいは知っているのだ。
 彼女なりの気遣いだということはわかるのだが、この状況に置いては、一番答えにくい質問であることには違いなかった。
「何か……あったのですか?」
 どこか心配しているような響きのある声である。
 途中で具合が悪くなった、とか。相手が待ち合わせ場所に現れなかった、とか。実は重大な事件が発生してしまった、とか。
 彼女が予想できてしまう類のものはたくさんある。しかし、そのどれにも当てはまることのない答えが、ロイの胸の内で渦巻いていた。
 一種の敗北感をも同時に味わう。気付いたときにはもうすでに手遅れだった。今日一日の行動全てが、この答えに収束されてしまっていたことに、今更だが気付いたのだ。
「ああ。中尉……君がいないとどうも私はダメだ」
「……大佐?」
 心配そうに顔を覗きこんでくる彼女と目が合う。
 喉元から迫り上がってくる独白にも似た言葉が、心に逆らうことなく口から零れ出していった。

「優秀な部下がいないと困る、というだけじゃないぞ。……君が、恋しいんだ」

 信じられない言葉を聞いた、というような表情をした彼女に、ロイは苦笑するしかなかった。
 彼女にとっては信じられないことだろうが、自身の口が愛を囁くことはこれまでに無かったのだ。
 しかし今の言葉は、紛れも無く愛の告白ではなかったか。
 ロイは言葉を失ったホークアイの腕を引き寄せて、頬に唇を寄せる。風邪に弱っている体は抵抗も無しにロイに引き寄せられた。
「……おやすみ」
 そう言葉を残して、ロイはその場から駆け出してしまった。その場から離れることをロイは選んだ。――彼女の返事を、ロイはきかなかった。
 自身のこの想いが一方的なものだということを自覚していたというのもある。しかしロイは満足していた。長年抱えていた想いを伝えることができたのだ。素直になれたのだ。初めて、自身の口が、愛の言葉を紡いだのだ。
 冷たい外気が心地良いと感じてしまうほどに、体中が熱を持っていた。冷え切った空気に体を晒すことで熱を冷まそうとも思ったが、それさえもかなわぬほどだった。
 けれど、冷めることのない熱が体中を巡ってゆくうちに、後から後から、どうしようもない切なさがこみ上げてくるのを、ロイは感じずにはいられなかったのである。



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