「まーたデートっスか?」
 ジャン・ハボック少尉は彼の上官であるロイ・マスタング大佐のコートに手をかけながら溜息をひとつ零した。
 定時ジャスト。
 ロイはこれからデートらしい。珍しく時間内に仕事を終わらせたかと思えば、そんな理由だ。
「世の女性たちが私を放って置いてはくれぬのだよ」
 そう得意気に言ってみせるロイに、ハボックはへいへいと気の無い返事をした。
 今日はホークアイが有給休暇をとっているので、ロイの身辺の世話はハボックがすることになっている。ホークアイならば、ロイの背に回りコートを着せてあげているところなのかもしれないが、ハボックはホイと黒コートをロイに手渡しただけだった。
 男と女ではこうした世話の仕方にも幾分差が出る。ロイもそれは分かっているし、ハボックにコートを着せてもらうというのもなんだかぎこちないので、黙って自ら袖を通す。
 その姿を見ながら、ロイの背中がいつもより寂しそうだとハボックは思った。
「大佐、前から言おうと思っていたんスけど……」
「なんだ」
 鞄を手に取りドアへと向かって歩き出したロイに向かってハボックは言う。
 デートに遅刻はタブーだとロイは常に言うので、長々と話に付き合わせるつもりもないが、こればかりはどうしても言っておきたいと常々ハボックは思ってい た。ホークアイのいない今だからこそ言えることなのだ。たった一言だが、ロイが少しでも心に留めておいてくれればとハボックは願う。
 ハボックの言葉を聞いたロイはそこで歩みを止めた。カツカツと心地良かった軍靴の音が止む。
 真っ先に脳裏に浮かぶのは、今日風邪を引いて休んでいるもうひとりの副官の姿。
 ロイはハボックを振り返った。彼の真っ直ぐな瞳を見て、お見通しなのだな……とロイは苦笑する。

『……そろそろ素直になったらどうですか?』

 ――今思えば、部下のこの一言が始まりだったのかもしれない




片恋





 ホークアイが風邪を引いて仕事を休んだ。
 常日頃から健康管理を怠らない彼女にとって、風邪を引いて休むというのはとても珍しいことだ。
 ロイも今朝彼女からきた電話の内容に驚いたものだが、ホークアイは仕事をするのも早いので、今日締め切りの分は全て昨日中に終わっていたし、こうして欠 勤することがあっても引き継ぎやすいように書類も丁寧にまとめてある。だから彼女が一日休んだところで仕事がストップすることはないのだが……ロイにとっ てはそうではなかった。
 なんせ彼女はロイのお守りだ。書類の置き場所から何から全て把握しているのはホークアイであってロイ本人ではない。
 電話ではそんなロイを気遣ってか、「今から言いますから、メモしてください」とホークアイは言って、ロイの仕事に支障が出ないように仕事で使いそうな書 類やらの場所を伝えようとした。が、途中で彼女が咳き込むのを電話口で聞いていると、だんだんと彼女の身体が心配になってきて、「仕事のことは気にしなく ていい。早く休みたまえ」とロイはそこで電話を切ってしまったのである。
 それからが大変だった。自分の仕事くらい全て把握していると思っていたロイは、仕事を始めようとして早速書類の場所が分からず、自分がどれだけホークア イを頼りきっていたのかを今更ながら思い知らされたのである。書類がなければ仕事を始めることさえもできない。普段からロイはデスクワークのスピードが遅 いだのなんだの言われているけれど、今日はその比ではなかった。仕事にとりかかる以前の問題だからだ。
 ロイはホークアイに電話をかけようかとも一瞬考えたが、彼女はきっと寝ているだろうし、一度電話を切ってしまった手前、そんなことは情けなくてできなかった。
 そこで部下を総動員しての書類探しが始まった。しかし男ばかりの職場であるので、探し物をするにも要領が悪い。引き出しの物を出したらそのままにしてし まうので、大部屋をはじめとしてロイ個人のオフィスも荒れ放題。それが転じて大掃除にまで発展してしまった。部屋は綺麗になったが、仕事は片付かない。
「明日、中尉が出勤してきたら何て言うでしょうね」
 フュリーの言葉に男たちは背中を凍らせ、ロイも身体を震わせた。
 午前中は全くといってもいいほど何も片付いていなかったので、机の上には未処理の書類がいつ倒れるかも分からぬほどに積み重なっている。明朝、ホークアイが出勤してきて机上のこの溢れんばかりの書類の量を見ればどんなことになるか。それは想像するだけでも恐ろしい。
 しかしロイにも意地はあった。このままではホークアイがいなければ何も出来ない上官だと言っているのも同然である。そうなっては上官としての面目も丸潰 れなので、それからはロイもいつになく必死にデスクワークをこなした。定時を迎える頃には、やればできるではないかと部下と称え合えるくらいに仕事が片付 いたほどだ。
 ところが、仕事も終わって明日の予定でもチェックしておこうと手帳を取り出したときに、ロイは今まですっかり忘れていたことを思い出したのである。
 今日の日付の欄に、女性の名前。
 手帳から顔を上げてふと部屋を見渡せば、部下たちの視線がどうにも生温い。デートがあるから仕事も早かったのだと思われていることは容易に知れた。手帳で約束の時間を確認しているように見えていたのかもしれない。
 ハボックからも「まーたデートっスか?」と溜息交じりに言われてしまった。けれど、
「世の女性たちが私を放って置いてはくれぬのだよ」
 普段ハボックと交わしているような言葉が反射的に喉元を突いたあとすぐに、ロイは自分の心の中に零れゆく盛大な溜息を認識せずにはいられなかったのである。
 馬鹿だと思う。どんなに周りの女性から慕われてはいても、ひとりの女性の心を手に入れることができない――そんな今の自分が……。
 黒コートの袖に腕を通しながらも脳裏に浮かぶのは、いつも傍に控えている彼女の姿。そしてコートを着終わったときに、背中をトントンと叩いて埃を払ってくれる彼女の手の感触。
 明日になればまた会えるのに、なにもかもが懐かしく、そして愛しい。だからこそ、部屋から退出する間際にハボックのくれた言葉が、こんなにも心の奥底まで響くのだろう。きっと今の自分に一番必要なことなのだ。

『……そろそろ素直になったらどうですか?』



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