有言実行という言葉に即し、ロイは定時までに書類を全て処理していた。
「いつもこうであれば良いのですけれど」と普段ならこうした軽口を叩くところなのだが、今日はそのような雰囲気ではない。
無言で帰宅の準備を進めるロイの傍らで、リザはいつものようにハンガーにかけられた彼のコートを手に取った。暫くはハボックがロイの送迎を勤めていたから、リザにとっては久しぶりの感触だった。
真っ黒なコートをロイが着やすいように広げ、リザは立ち上がったロイの背中に無言で回りこむ。袖が通されたのを確認してトントンとロイの背中を叩いた。すると、コートに付着していたいくらかの埃がそれで落ち、舞った埃は夕陽の光を浴びてキラキラと光を反射させた。
リザとロイの間に会話はなかったから、リザがコートを叩く乾いたその音もやけにはっきりと耳に届く。
その音を聞きながら、リザは自分のなかにいつものリズムが戻ってくるのを感じた。
トントンと背中を叩く音に合わせて、少しずついつもの自分に戻ってゆくような気がする。
それはきっと、常に繰り返されてきた日常のリズムがそこに刻まれているからなのだろう。ロイの帰宅に居合わせるときには、リザは必ずこうしてロイの背中を叩いていた。そうして彼の背中に向かって心のなかでこう唱えるのだ。
あなたの背中に埃ひとつ付かないように。
あなたの背中を誇りを持って守っていきますから。
だから、あなたはいつも前を向いていてください。
そして仕上げとばかりにトンと少し強めにロイの背中を叩く。叩くというよりは背中を押しているようにも思える力加減だが、それでもロイが体勢を乱すことはない。
「 よろしいですよ、大佐」
立ち止まってくれていた彼にそう告げて、「玄関に車を置いてあります。行きましょう」とリザはロイを促す。
しかしロイは帰る素振りを全く見せない。
ドアノブに手をかけて、様子を窺うように振り返ると、ロイは夕陽の光を浴びてその場に立ち尽くしていた。彼の横顔は眩しい光に当てられていて、どんな表情をしているのかはリザにはわからない。
「 中尉」
けれどそこで自分を呼ぶ彼の声が聞こえて、胸がトクンとひとつ強い鼓動を打った。
「はい」
ロイに真っ直ぐ向き直ると、ロイも今度は背中に夕陽を受けながらリザを見つめる。今度はしっかりとロイのその視線をリザは受け止めた。
ロイは真っ直ぐリザへと視線を送りながら、こう口にする。
「 君は、恋をしたことはあるかね」
予想もしなかった突然の問に、リザは目を見開く。一体何を意図してこのような質問をするのかと一瞬そんな疑問がリザの脳裏を過ぎったが、答えは考えるまでもなくすでに出ているので、リザはすぐに答えた。
「いいえ。ありません」
「 」
リザにとって「恋」とは、ロイにきかれるまで全く意識したことのないものだった。男女間で生じる「恋」というものについて、友人の話や小説本やらの類でしか見聞きしたことがない上に、自分はどうなのかと意識を向けたこともなかった。
恋をしたことがないからといって、これまで困ったことなど何ひとつなかったのだ。
「 私には必要のないことです、大佐」
リザがそう言葉を続けると、ロイはひどく辛そうな表情をし、またそれを見られぬようにと顔を背けた。なぜロイがそんな顔をするのかリザにはわからなかった。が、彼のその表情は、「あの日」の彼を思い起こさせた。
まるで糸が絡まってしまったかのように、ぎくしゃくしている自分と彼の関係。彼の問は直接的には「あの日」を境に乱れた歯車を修正するためのものではなかったけれど、リザの深奥にある信念を呼び起こすひとつのきっかけになり得たことに違いはなかった。
リザにとっては、ロイを守ることが一番に優先されるものだった。きっとこれから先もずっと変わらないだろうと思う。だから、自分には必要のないことだとリザは思うのだ。
だから、ロイの問に対する自分の答えは間違ってもいないし、この上なく正直な答えであった。
ところがロイは、先程の表情を更に色濃く表した。
「 本当にそう思っているのか?」
「 はい」
彼の表情に戸惑いながらも、リザは答えを口にするしかなかった。
だが、ロイはリザの答えに納得できないようで、彼女に背を向けてしまう。
夕陽の光を正面に浴びながら彼が、何を考え、何を想っているのか。リザにはわからない。しかし、これだけは伝えなければとリザは思った。「あの日」を境に平常心を欠いてしまった己への戒めと彼の問によって気付かされた、自分の想いを 。
「あなたを守ることが、私にとって一番大切なことです。これから先もずっとそうです。だから、私には必要ないんですよ、大佐。――私はあなたのお守りで精一杯。他の男性に世話を焼く暇はありませんから 。 この答えでは納得して頂けませんか?」
「 」
ロイがこちらを振り返ってくれたので、リザは微笑を浮かべる。久しぶりに笑ったかもしれないと思いながら、もう一度口元を引き締めた。そして、諦めにも似た口調で言葉を紡ぐのだ。
「それに私は、恋とはどんなものかを知りませんから 」
だから、恋をすることはこれから先もないのだとリザは告げる。
しかし恋をすることを諦めたからといって、後悔するということは決してない。
ロイただひとりをこれから先もずっと守っていけるということ。それは、恋をすることよりも何よりも自分が望んだことで、幸せなことであると思えるのだ。
「大佐、私はあなたの傍にいられることが、何よりも幸せなんです――」
リザがそう口にすると、ロイは大きく目を見開いて、それから照れたように笑った。けれどすぐに困ったように微笑を浮かべて彼女に近付き、そっとリザの肩を抱いて引き寄せるのだ。
力強く抱き締められて、その力に抗うこともできずにリザが目を瞬かせていると、ロイに低く掠れた声で耳元に囁かれた。
「――君に、恋を教えてあげよう」
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