体中の力が抜けて、ふらふらとその場に座り込んでしまった。
 おやすみ、と一言告げて外へと飛び出していった彼の背中が目に焼きついて離れない。ゆっくりと瞬きを繰り返せば、記憶の残像はよりクリアになっていく。
 胸が強く鼓動を打ち始めた。意識して酸素を肺に送りこまなくては呼吸すら忘れてしまいそうな感覚に、眩暈をも覚える。
 彼に包みこまれた手で、彼にキスされた頬にそっと触れると、そこは焦げるように熱かった。




はじめて





 風邪の気だるさが消えたからか、身を震わせてしまうくらいの冷たい風にも心地良さを感じる。
 昨日の火照った頬の熱さをも記憶の片隅にしまっておくことができそうなくらい、熱を帯びていた身体が冷水シャワーで洗い流されてゆくような感覚があった。
 内に芯のある熱を残したまま、表面上の熱だけがその冷気に奪われてゆく。身体に適度な熱だけを留めるようにと、リザの身体は朝の冷たく清々しい空気を欲した。
 一日のはじまりである朝が、リザを冷静にした。リザは、平静を取り戻しつつあったのだ。
 それなのに、どうしたというのだろう。
 執務室のドアを開け、彼の姿を見つけたそのときからずっと、彼のことを、昨日のことを、意識せずにはいられなかったのである。
 書類を手渡すとき、ふと顔を上げた彼と目の合うその一瞬が、時間が止まってしまったかのように長く感じられてしまう。いつもならば気にならない、自分を まっすぐに見つめてくるその瞳を見つめ返すことができなくて、視線を逸らしてしまう。用事が済めば、すぐさまロイの元から立ち去る自分……。
 思い返してみれば、これまでの自分にとっては考えられないことばかりを繰り返していた。
 リザは自分で自分が信じられなかった。何も難しいことではないのに、いつも通り、彼と普通に接することが、リザにはできなくなっていた。今までどう接していたのかさえも、わからなくなってしまった。記憶を呼び起こすことさえ、できないのだ。
 そしてとうとう、その不自然さは、誤解を受けても仕方のない領域まで達してしまう。
 最初に疑問の声を上げたのは、ハボック少尉だった。
「中尉、大佐と何かありました?」
 くわえた煙草はそのままに、ハボックは何気ないふうを装って問いかけてきた。内緒話をするかのように、声はおさえられている。
「……何もないわよ」
 そう答えを返してはみたものの、その答えをおそらくは正しいものだとは思っていない声音で、ハボックは言葉を返すのだ。疑問の音を含んでいるからか、わずかに語尾があがっている。
「――そう……っスか?」
「ええ」
 気付かれないようについた小さなため息と、吐き出された嘘。視線の先には、書類の束を前にして黙々とデスクワークをこなす上官の姿があった。
 無意識のうちに向けた視線の先には必ず彼がいて、それはまるで小さな子供が好奇心に駆られてその対象物をじっと見つめているかのように、彼という対象を夢中で見つめているのだった。
 どれほどの間、見つめていたのだろう。彼は自分の視線に気付いたようで、少し困ったような、しかしそれでいて、小さな子供に対するような優しさをもって、彼はきいてきた。
「どうしたんだい? 中尉」
 声は低くともやわらかい。まるで今にも泣き出しそうな幼子を心配するかのような声だった。
「いいえ。なんでもないんです」
 ハボックに返したものと同じ答えを繰り返して、今度こそは逸らすまいとまっすぐ彼へと視線を送る。もっと自然な言い方ができないものだろうかとリザは思うけれど、今はこれが精一杯だった。
「……そうか。それならいいんだ」
 微苦笑を浮かべるロイを視界におさめながら、リザはチクリと胸が痛むのを感じた。昨夜、ドアの閉まる寸前まで自分のこの目に映っていた彼の背中を思い出す。身体の芯がジンと痺れを帯びた。
 ロイが自分からすっと視線を逸らし、机上の書類へと目を向けたのがわかった。
 彼は自分の異変に気付いているのかもしれない。このとき、リザはそう感じずにはいられなかった。



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