「大佐、先程の書類ですが 」
彼女がオフィスに入ると、机の上には大量の書類が積まれたままで、そこに居るべきはずの主はいなかった。
彼女は続けようとした言葉を飲み込み、ぐるりと部屋を見回す。少し目線を下げれば、すぐに彼を見つけることができた。
彼の名前はロイ・マスタング。地位は大佐であり、そして只今、書類を放置したままお昼寝中であった。
彼の副官である彼女――リザ・ホークアイ中尉は溜息を吐いた。本当に彼のサボり癖にはいつも手を焼いているのだ。 今に始まったことでは無い。
彼はソファに足を伸ばして仰向けに寝ていた。見るからに、ぐったりしているようだった。
重くはないのだろうか。彼は分厚い本を顔に乗せたままである。時折彼の呼吸に合わせて本が上下した。
「大佐 」
少し声の音量を抑えて彼を呼んでみる。返事は無い。彼女自身、今彼を起こそうとも思っていないらしかった。
その分厚い本は錬金術の本なのであった。ロイは軍人でありながら錬金術師でもある。
しかし最近では錬金術の研究も、軍での激務に追われているから十分に出来ていなかったのだろう。だからこうして時間を見つけては本を手に読みふけっているようだ。
彼の疲れが溜まっているということは、ホークアイにもよく分かっていた。 だからこうして今は、彼を起こさずにその様子を見つめているだけ。彼の寝て いる時の表情だとか仕草はとても幼くみえる。あどけない寝顔は時にホークアイの母性本能をくすぐるのであった。 今は顔の上に本が乗っていて、見えない けれど。
「 」
彼女はソファに近付いた。彼の寝息が間近に聞こえ、どうしてだろうかとても安心した。
彼は熟睡しているようで、彼女がソファに近付いた時、その気配さえも全く感じていないようだった。
こんな時敵に襲われでもしたら と、ホークアイは時々不安になる。
彼女は、彼の顔の上に乗っている本をそっと取り上げた。こんなに重く分厚い本を乗せたままでよく眠れるものだと、ある意味感心する。
パラパラと本を捲ってはみたけれど、その内容はさっぱり分からなかった。
ホークアイはテーブルの上に本を置き、今度は彼の寝顔を見つめた。可愛らしい寝顔である。部下の前でみせる普段の彼の表情からすれば想像もつかないものだろう。こんなにもあどけない表情で彼は眠るのだ。
髪はくしゃくしゃになっており、何か考え事でもしていたのだろうか とホークアイは考えを巡らせたりもした。
思えば、こうして時が止まったかのようにのんびりと出来るのは随分と久しぶりのような気がした。
実際、書類の提出締め切りが迫ってはいたけれど、まだ余裕で間に合うだろう。 彼が真面目に取り組んでくれさえすれば。
彼が起きたら一瞬たりとも見逃さずに彼が書類を片付けるのを見守っていようかと思ってみたりする。
そう考えると思わずくすっと笑みが零れて、ホークアイは自分でも驚いた。 こんな風に笑うことも出来るのだ。
この部屋にいるのは自分と上官の二人だけで、他には誰も見ていない。しかも彼はまだ夢の中である。
――自分の内にある感情が零れ出すのには十分な環境であったのだ。
ホークアイはそっと彼の前髪に手を伸ばした。彼にこうして触れることは、許されることではないと彼女は分かっている。
長い付き合いとはいえ、彼は上官である。彼の寝ている時に、彼に許可無く触れることなどあってはならないことだった。
しかし気付けば、くしゃくしゃになった前髪を梳くように撫でている。
――ホークアイは彼が愛しかったのだ。どうしようもなく。彼に触れていたかったのだった。
暫くしてからホークアイは、これ以上触れていては彼を起こしてしまうかもしれないと、彼からそっと手を放した。
名残惜しそうに彼から離れていく手。彼女は苦笑するしかなかった。
しかし、その時 彼女の手はまた再び彼に引き寄せられたのだった。
「起こしにきてくれたのかね? ホークアイ中尉」
タイミングが悪かった。彼は彼女の行動に気付いていたのだった。今、こうして起きて、彼女の手を掴んでいるということは、そういうことである。
彼女は自分の手を引き寄せようとするが、彼はしっかりとその手を掴んでいて離してはくれない。
どうすることもできないので、彼女は素直に自分の行動を詫びることにした。
「失礼しました、大佐」
「謝ることではないだろう? 中尉」
すると彼は、彼女の前髪から頬にかけて、ほんの一瞬。一度だけ。ゆっくりと撫でるように彼女に触れたのだった。
その時の彼の手つきはとても優しかった。そして彼の手はとても温かかった。目を閉じて、その心地良さに浸ってしまいたくなるほどであった。
「これでおあいこだ。中尉」
その言葉にホークアイははっと我に返った。
気付けば彼は机に向かい、大量に溜まった書類を見やりながら溜息を吐いているではないか。
そうして、またしても頭をくしゃくしゃと掻いている。自分の頭がボサボサであることに彼は気付いているのだろうか、と彼女は苦笑した。
彼女は彼の元へと歩いていった。書類の提出締め切りまであと二時間 。
止まっていた時間が再び動き始めたのだった。どうしようもなく。時とは流れていくものであった。
彼女は彼が愛しかった。彼も彼女が愛しかった。けれど、再び時が流れれば二人は上官とその副官なのである。
視線が絡まりあっても、お互い微笑むことはない。不可思議な心地良い感情に浸ることもできない。
どうしようもないことなのだ。胸の内にその感情を留めていることだけしか許されないのだ。
今はただ、こうして時の流れに身を任せることしかできないから――
FIN
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