「ホークアイ少尉が居ない?」
「はい。先程から我々も探しているのですが……」
 ロイは真っ赤に染まる空を見上げてから、くるりと踵を返した。
「マスタング中佐、どちらへ?」
「探してくる」


 ――マスタング中佐、今日も私は人を殺しました




安息の地に





 川の流れはどこまでも続いていた。
 いっそこのまま身を投げて自分も共に流されてしまえばこの苦しみから解放されるのかもしれない。
 ホークアイの脳裏に一瞬だけそんな考えが浮かんだが、彼女は首を横に振ってその考えを頭の隅に追いやった。
 逃げるわけにはいかなかった。あの日彼に誓ったこと。自分は彼を守りぬくのだと――そのためには、生きなければならない。死ぬわけにはいかなかった。
 でも……とホークアイは真っ赤な太陽に背を向ける。彼が目的を果たしたあと、自分はどうなってしまうのだろう? 何度も浮かんだ自分への問が今このとき にも脳裏を過ぎった。その答えは未だ見つかっていない。彼を守りぬき、彼をこの国で一番上の地位に押し上げたあとで、果たして自分に居場所は残されている のだろうか……。
 彼のためならばこの手を血で汚してもかまわない。見返りはなにも望まない。ただ、彼の傍に居られれば。けれど彼が自分を必要としなくなる日はいつかは やってくるのだから、この想いは邪魔なものでしかないのだろう。それならば、彼にとって自分が邪魔者になってしまう前に果ててしまおうか――とホークアイ は考えた。
 何度考え直してもその考えに行き着いてしまう。そう、このまま歩を進め川にこの身を投げ込めば全てが叶う。全てを失う。しかし考え直そうと考えてしまう のはきっと、まだこの世に未練があるからなのかもしれない。そうだ。セントラルで温かな太陽の光を浴びながら、礼服に身を包み、こちらに向かって微笑む彼 の姿を見るまでは、まだ朽ち果てるわけにはいかない。
 彼の願いは自分の願い。彼の夢は自分の夢。それが叶った日を見届けなければ、死ぬに死にきれないに違いないのだろう。
 一つの結論が彼女のなかに生まれた。彼に必要とされている日まで、自分は生き続けよう。そして彼に必要とされなくなったら、すぐにでもこの身を流れの止まないこの清水の中に投げ込んでしまおう……。

 今日、人を殺めた。テロリストの一人だった。ロイに銃口を向けた彼にホークアイは発砲した。
 一人の命が、銃口の先から昇る煙のように果かなく消えていった。全てが終わった後、ホルスターの中にある金属の重みが、命の重みが体全体に圧しかかって両足でその圧力を支えることができなくなった。
 あてもなくふらふらと歩いて、この場所を見つけ、足元から崩れるように寝転んだ。
 これまで人を殺したことがなかった、というわけではない。たくさん、たくさん、殺した。ロイを守るためには人を殺すことも躊躇わなくなった。けれど、罪 の意識は己のなかに蓄積し続け、ときにこうして表立って出てきてしまうことがある。その度にホークアイは歯を食いしばって耐えるしかなかった。泣くことも 自分自身に禁じた。
『あなたが私の夫を……』
 自分が殺めた彼には家族がいた。妻に子供が一人。軍に逆らったから殺されたのだと済ませるにはあまりにも酷だった。未亡人となった彼女はこちらをじっと睨んでは、遺体に被さった白いシーツに目をやって涙の染みをそれらに点々と作った。
 死を理解するにはまだ幼い子供がきょとんとした目で母親を見つめている。ハンカチの代わりに目を手で覆って、子供を抱き締めながら彼女はホークアイに言った。憎悪の感じられる低く掠れた声が、ホークアイの耳に焼き付いた。
『あなたにこの苦しみは分からないでしょうね』
 その言葉にホークアイは何も考えることができなくなった。頭の中が真っ白になり、ただ身体の震えを止めようと拳に力をこめていた。自分のこの手は、一人の命を奪い、そして彼の家族の幸せをも同時に奪ったのだ。
 足がガクガクと震えた。そしてそれを気付かれぬようにとホークアイはその場から駆け出していた。
 自分らしからぬ行動だった。この苦しみ――愛する人を失った苦しみが自分にも分からないわけはない。いや、分かりすぎるほど分かっている。常に死と隣り合わせである自分の上官は、いつ殺されても不思議ではなかったからだ。
 もし、ロイがそうなってしまったら……そのときの自分の苦しみはいかほどか。
 つまりはそれほどの苦しみを自分は作り出し彼女に与えてしまったことになるのだろう。
 あのまま放置すればロイは確実に死んでいた。引鉄を引いたことに後悔はない。しかし自分の生み出した苦しみは決して消えることはないのだ。彼を守るため に引鉄を引いた。ロイが死ぬことによって生じる苦しみから逃れるために自分は引鉄を引いたといっても良かった。彼を失うことがなによりも怖かった。
 それならば、自分がロイの盾になっていれば、どちらの苦しみも生まれずにすんだだろうか――ホークアイの心の中に“後悔”の二文字が初めて浮かんでいた。


「……少尉」
 自分を呼ぶ声がした。軽く眩暈がする。瞼をぱちぱちと数回瞬かせてから目を開けると、流れの途絶えない川がすぐ目の前にあった。そこで随分と自分が川に近付いていたということにホークアイは気付く。
 夕焼けの光を反射させて、水面はきらきらと輝いていた。ほんのすこし前進すれば、この身を川の底に沈め、水面に歪んだ太陽を見つめながら死にゆくことができただろうに……。
「少尉!」
 返事をしないホークアイに、もう一度彼女を呼ぶ声がした。
 その声は切羽詰った響きを持っており、今度ははっきりと耳に届く。土手に横たわっていたホークアイはゆっくりと上体を起こした。
 後ろを振り返ると、見慣れた面影がそこにはあった。夕焼けを背に佇む彼は、眩しかった。手の届かない光を持つ彼は、きっとこの国で一番上の地位へと駆け 上がることが出来るに違いない、ホークアイは予感にも似た確信をこのとき得ることができた。そう思えるだけの輝きが彼を纏っていたのだ。
「中佐……」
 心の中で呼んだのか、口に出して呼んだのか、判別のつかない声は彼に届いていたのだろうか。
 ロイは真っ直ぐ彼女の元へと歩み寄った。
 上官が自分の前に立っているのだ。きちんと両足を揃えて立ち敬礼しなくてはならないはずなのに、ホークアイにはそれができない。両足で立つ力さえも彼女には残っていなかった。
 どうすることもできずにホークアイは俯いたが、途端、胴体から引き千切られるような力で腕を引っ張られ、彼女は無理矢理彼によって立たされてしまった。
 上官への無礼を働いた自分には当然の報いだとホークアイは思ったが、彼を見上げようとしたところで頬に鈍い痛みが走った。じわりじわりと口の中が鉄の味で満たされてゆく。何が起こったのか彼女にはすぐに理解できなかった。
 彼女と目が合うと、ロイは怒りに声を震わせながら言った。
「君は一体ここで何をしようとしていたんだ!」
 頬の痛みはもう感じなかった。彼から目を逸らしたかったけれど、真っ直ぐな彼の目からは逃れることができない。
 ロイは何度も激しく呼吸を繰り返して、そこで初めて不安を口にした。
「君がただならぬ様子で出て行ったというから……!」
 ロイには分かってしまったのだった。こんなにも川へ近付き、その輝く水面に羨望の眼差しを向けていた彼女が、何をしようと思っていたか。
 以前自決をはかった自分と同じ表情を彼女はしていた。たくさん、たくさん、人を殺した。そしてその度に罪の意識に苛まれ、そこから抜け出したいと、自分の命を絶つことで罪を償いたいと、何度も思った。それは彼女とて同じだったに違いない。
 返事のない彼女の姿に、胸が暴れた。もう手遅れなのではとも思った。川に飛び込まずとも、ホルスターの中に仕舞われている金属の引鉄を引けばすぐにでも黄泉の世界へと旅立てる。
 しかしそうとは信じたくなくて、ロイはもう一度怒鳴るように彼女を呼んだのだった。
 返事はあった。
 その瞬間、言いようのない安堵感と、ここまで自分を追い詰めた彼女への苛立たしさで胸が張り裂けそうだった。
 ロイは手をあげた。彼女がこの世に留まることを願い掌にこめて、ホークアイの頬を打った。彼女を死なせるわけにはいかなかった。彼女は生きなくてはならないのだ。
 ホークアイはじっとロイを見つめたあとで、彼の姿を捉えて安心したのか、それとも頬への一撃が全身に響き始めたのか両足をぐらつかせ、その場に倒れそうになった。
 ロイが肩を抱いて支えてやると、か細い彼女の声が絶え絶えに背中越しに聞こえた。
 片手で充分支えられる彼女の重みは、彼女の命の儚さをもロイにじわじわと知らしめていた。
「あ……りがとう、ござ……いま、す、中佐……」
 彼女の言葉に、彼女の想いに胸がつまる。肩を抱く腕に力がこもる。ロイはかたく目を閉じた。
 ホークアイは彼の腕を力なく握り締めながらゆっくりと言葉を紡いでゆく。
「目が、覚めました、よ……。私は……馬鹿なことを、してしまう、ところでした……」
 死んだ彼に家族がいることを知ってしまった彼女の心の痛みはいかほどか――それは今の彼女を見れば痛いほどによく分かる。
 上官である自分を守るために躊躇うことなく引鉄を引く彼女は、こうして銃を握り締める度に心を引き裂かれる思いでいるのだろう。
 自分の副官でなくなれば、軍人でなくなれば、この世から消えてしまえば、その苦しみからは解放されるかもしれない。しかしホークアイがもしそのことを望 んだとしても、ロイは許すつもりはなかった。彼女を苦しめているのは自分だ。けれどもう彼女を手放すことはできない。それは既に一部下に対する執着を超え たものだ。
 ロイは堪らず両腕で彼女を強く抱き寄せていた。
 思えばこれが初めての抱擁だった。
 力をこめればすぐにでも折れてしまいそうな華奢な身体。彼女は女なのだ。男から守られるべき大切な女性(ひと)だ。本当は自分が彼女を守る立場でありたかったのだ。軍人として――上官として、部下を、という意味ではない。もっと別の意味で……。
「たんぽぽ……」
 そこで小さな声が子供のような無邪気な声が背中から聞こえてロイは、はっとなった。
 一瞬、彼女が何と声を発したのか分からなかった。
 “たんぽぽ”と彼女は言葉を紡いだ。何故彼女が突然“たんぽぽ”などと言い出したのかロイには理解できなかったが、そのとき何か白く細長いものが彼の目の前を過ぎった。
 ロイは辺りを見渡す。この場に来てからというもの彼女のことしか見ていなかったから、周辺の景色など気にも留めていなかったのだ。

 その辺り一面には、たんぽぽの綿帽子が広がっていた――

 こんなにも一面に広がるたんぽぽをロイは初めて見た。すっと目を細めると、たくさんの真っ白な綿毛がふわふわと空中を彷徨っているのが見える。
 たんぽぽの寿命はあとどれほどか。こんなにもたくさんの綿帽子。種をこの地に舞わせたあとで、息絶えるだろうたんぽぽの生命。
 もう暫し時が経てば、たんぽぽの残骸のみがこの地を埋め尽くすだろう。けれど、春になれば、またきっと……。
 今、この場所は死と生が混在している地だった。
「知って、いますか? 中佐」
 ロイはホークアイの声に耳を傾ける。何も言わず、黙って彼女の声を聞いた。途切れ途切れの彼女の声は、ロイの胸を切なさで締め付けた。
「たん……ぽぽは、根を地に、力強く、張り巡らせているから、踏まれても……踏まれても、生きてゆくことが、できるのです」
 たんぽぽのように自分も強くありたい、強くならなければ、そんな思いで彼女がこのたんぽぽを見つめていたのかと思うとロイはたまらなくなった。
 ロイはホークアイの身体が折れそうなほどにきつく抱き寄せ、彼女の金色の髪に顔を埋めた。
「……そんなに強くならなくてもいい」
 喉からやっと押し出せたような掠れた声がロイの口から零れ出た。彼女はロイを守るために強く強くあろうとする。けれど……とロイは願った。
 彼女が心身ともに傷つき、自分を必要としてくれるときがあれば、この腕で彼女を抱き締め、護り、彼女にとって心安らげる温もりを与えたい、と。人の痛みを自分の痛みのように感じる心優しい彼女の、傷つきやすく壊れやすい彼女の、心頼れる一人の男でありたい……と。
 するとそのとき、彼の気持ちが温もりを通して伝わったのか、彼女の手がゆっくりと彼の背中に回され、しがみつくように抱き返された。彼女は小さく身動ぎをする。首を小さく横に振り、彼の肩に顔を埋めて言った。

「私は……あなたなしでは、生きてゆけません」

 ――思えば、これが彼女の初めての告白だった

 ロイは拳を強く握り締めた。彼女がロイを守ろうとする限り、彼女は強くあり続けなければならないのだ。

 たんぽぽの綿帽子。真っ白な綿毛が宙に舞う。真っ赤な太陽からの光を受けて、きらきらと光る川面に降り立ったそれらに生はない。たんぽぽは自分の生きる 場所を選ぶことはできない。けれど、地に降り立った真っ白な小さい生の証は、そこから離れないようにしっかりと根を張り、踏まれても踏まれても強く生きて ゆく。
 この場所は死と生が混在した地だった。
 生と死の狭間に立ったホークアイの瞳には、このたんぽぽの行く末が映っていた。



FIN



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