兄と妹として過ごしてきた歳月の長さが、自身に湧き出た感情を彷徨わせているのかもしれないと思い始めたのはいつだっただろうか。
「随分と疲れていたんだな」
 新一の声に、蘭は小さなあくびをひとつして、ゆっくりと上体を起こした。頬に零れ落ちた髪を掬って耳にかけると、耳に少し熱がこもっているのがわかる。蘭はうーんと背を伸ばして新一に向き直った。
「明日から文化祭だからね。準備、はりきっちゃった」
「そうか」
 短い返事のなかにも、新一の優しさが滲み出ている。それは兄が妹を労わるような優しさでありながらも、どこか恋人に話しかけるような熱がこめられているようでもあった。
 新一の表情に目を釘付けにされながらも蘭はそこではっと思い至った。
 今ここに新一がいるということは、寝ている姿を見られてしまったということである。新一を兄としてだけ認識していればそう気にすることもないのだが、蘭は新一に対して兄に寄せる愛情だけではない感情を抱いているから、気恥ずかしくてしかたがなかった。
「あ、そうそう。これね、文化祭のパンフレット」
 意識をそこから逸らそうとばかりに、蘭は机の上に置いていたパンフレットを手に取り、新一に手渡す。
「凝ってるなぁ」
 新一はパラパラとページを捲りながら感心したように呟いた。
 新一の意識が自分ではなくパンフレットに向けられたことに、蘭は少しほっとする。けれど矛盾したことに、新一が自分ではなく他のものを見ていると、ついついかまってほしくなるのだ。こればかりは、この十年かわることのなかった小さな我侭だった。
「……お兄ちゃん、懐かしい?」
 無意識のうちに、蘭は新一の意識を自分の元へと呼び戻そうとしていた。
 新一はパンフレットを閉じると、机の上にそっとそれを置いた。
「……ああ、そうだな。でも――文化祭の思い出はほとんど持ってねーんだ」
 そして苦笑しながらも蘭へ向ける眼差しだけは優しく穏やかなそれを保つ新一は、「蘭と一緒だったらきっと楽しかっただろうな」と告げる。
 瞬きをゆっくり繰り返しながら、十年前の新一のことを蘭は想った。
 もし自分があと十年早く生まれていたら、もしかすると同じ時間(とき)を共有し合うことができたのかもしれない。
 帝丹高校に伝わる言い伝えを信じて、ダンスの日を心待ちにしていたのかもしれない。
 それに、今よりもずっと、新一に“女の子”として意識してもらえたかもしれない。
 そんな淡い期待が、蘭の胸に沸々と湧き上がった。けれど、それは叶うはずもない願いだとわかっていた。
「私も、お兄ちゃんと一緒ならもっと楽しいよ」
 呟くように言って、俯くと、新一の大きな手が蘭の頭を撫でていった。小さい頃にもよくしてくれた、慰めてくれるときのような温かくて優しいその手の動きに、蘭は涙が出そうだった。
 妹として大切にされているのが痛いほどによくわかる。と同時に、新一にとっての自分は妹以外の何者でもないのだと痛感する。
 新一の恋人になりたいという望みを抱くのは間違いだとわかっているのだ。十年前身寄りのない自分を引き取ってくれた新一の役に立てることが自分にできる精一杯の恩返しである。大それた望みは、置き捨てていくべきだ。
 だから、きっとまた兄と妹としての時間を積み重ねてゆくうちに、この感情の置き場所を見つけることができるようになるだろうと、蘭はそう信じるしかなかった。
「……明日は早いんだろ? もう寝なきゃな」
「うん」
「おやすみ、蘭」
 今度はくしゃくしゃっと蘭の頭をかき混ぜてから、新一は蘭に背を向けドアノブに手をかけた。新一の広い背中が遠ざかっていく……。
 カチャリとドアが開く音に心が急いて、蘭は部屋を出て行こうとする新一を呼び止めてしまった。
「お兄ちゃん!」
「……ん? どうした?」
 まるで縋るような声を上げた蘭に、新一が驚いたように振り返る。
 蘭はぐっと唇を引き結んだ。何か話したいことがあったから呼び止めたのだろうとわかっているけれど、頭の中がぐちゃぐちゃで何と言葉にしていいかがわからない。
 いよいよ焦りが出始めた頃。ハッと浮かんだ唐突な、それでいて素直な感情を含んだ言葉がひとつ、蘭の口から自制なく零れ出していった。
「文化祭、来てくれる?」
 わずかに頬を染めながらそう尋ねる蘭に、新一はさも当然だと言わんばかりの笑みで答える。
「ああ」
 新一のその答えに嬉しくなった蘭は、自分の心に嘘を吐くことがこのときばかりはできそうになかった。
「ダンス、一緒に踊ってくれる?」
「蘭?」
 新一は蘭のその言葉に驚きを隠せないようだった。
 新一のその驚き様に、蘭の全身から血の気が引いた。
 帝丹高校出身の新一は“一緒にダンスを踊る”ことの意図を正確に掴めるはずである。そう思い至って、蘭は一度血の気が引いたそれを今度こそ耳まで真っ赤に染め上げてしまっていた。
「お、おやすみなさい! お兄ちゃん!」
 瞬時に頭から布団をかぶって、ぎゅっとしがみつく。最初はひんやりと感じた布団の中も、すぐに熱がこもりそうだった。今は新一に見せる顔がない。恥ずかしくて死んでしまいそうだった。
 新一がどうかこの布団を剥ぎ取りませようにと願いながら、蘭は目を閉じる。
 すると、真っ暗な布団の中で聴覚を研ぎ澄ますまでもなく、「おやすみ」と優しい声が布団の上を撫でていった。



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