空が、泣いていた――
 
 彼女は、ゆっくりと空を見上げ目を細めた。止む気配は全く無い、次から次へ と空から降ってくる雫。すっかり体中は水気を帯びて、濡れた髪が肌に張り付いていた。しかし額にぺたりとくっついた前髪を払うこともせず、彼女はただただ 空を見上げ、そして一時するとまた思い出したかのように地面に視線を投げかけた。
 手には確かに傘があった。けれど彼女はそれを差さなかった。こ の雨に打たれていたかったのだ。髪の毛の先からは何度も雫が零れ落ちた。もう随分と長くそうしていたから、髪の毛の先には彼女に降ってきた雫が集まる一方 である。雨の冷たさに体の表面はすっかり冷え、体の芯からじんと痺れるような温かさがまた少しずつ奪われていく……。
 彼女は再び空を見上げた。
 幼い頃の記憶が、彼女の脳裏に思い出された。
『人は、死んだら……どうなるの?』
 子供の頃の小さな疑問だった。その時はあまりにも幼くて「死」というものがどんなものか知らなかったから、彼女はまだ何も知らなかったから、素直にその疑問を母に投げかけてみたのだ。
『死んだら……そうね……お空の向こうに行っちゃうのよ』
 彼女はまだ幼かったから、現実を知るにはあまりにも幼かったから、彼女の母はそう言って彼女の体を優しく抱き締めていた。
  彼女は、空を見ていたくなかった。再び地面に視線を下ろした。「死」というものがどんなものか彼女はもう知っている。それは、はっきりと知識を叩き込まれ たわけではなく、じわりじわりと社会の波から伝わってきた辛い現実だった。しかし彼女は遠い昔の幼い頃の記憶を思い出し、それも間違いではないのかもしれ ないと思うようになっていた。
 空の向こう――手を伸ばしてみても、届くことはないのだから……。
 「死」――この手に、温もりを感じることが出来なくなるのだから……。
  何も知らなかったあの頃。疑問に思って口にしたあの言葉。そこで得られた答え。体が震えた。もうこんなことは考えたくない、そう願っているのに考えずには いられなかった。体がまた震えた。死への恐怖。自身が死へといざなわれることは勿論怖い。しかしそれ以上に怖いのは、自分の大切な人が、自分の目の前から ――この世界から消えてしまうことだ。

「ねぇ……新一……あなたは今、どこにいるの?」

 彼女は、空を見ていたくなかった――  





こんな雨の降る日には




 
 パタン……
 玄関のドアが開き、閉まる音がして、コナンは玄関に駆けて行った。その手にはかなり大きめのタオルが握られている。玄関にはびしょ濡れの蘭が、その状態のまま家に上がることを戸惑ってその場でじっとしていた。
 ポタ……ポタ……ポタ……。蘭の髪から服から雫が零れ落ち、床に小さな水溜りを作っている。コナンは「おかえりなさい」そう一言告げて、蘭にそのタオルを差し出した。
  コナンは窓から蘭が帰ってくるのを見ていた。どしゃ降りだというのに蘭は傘を差してはいない。かと言って、雨に濡れないようにと走っているわけでもなく、 ずっと視線を俯かせたまま足取り重く歩いているのだ。蘭の姿はすぐに見えなくなり、それからすぐに階段をゆっくりと上がる音が雨の激しい音と混じり合って コナンの耳に届いた。
 ――ここ数日、蘭は雨に濡れて帰ってくる。
 手にはしかと傘が握られているのに、それを差さずにびしょ濡れのまま 家に帰って来るのだ。蘭に何かあったのではないかと心配になったコナンは、毎朝「今日は、一緒に帰ろう?」と言ってはみるのだが、「今日は、部活で遅くな るから……」と遠まわしに断られてしまう。どこまで踏み込んでいけば良いのか分からなくて、コナンはただただ心配で、家に帰ってからもずっと蘭が帰ってく るのを窓の外の世界を見ながら待っていることしか出来なかった。
「いつもありがとう。コナン君」
 消え入るような声でそう言われて、コナンは胸が苦しくなった。まるでここから居なくなってしまうような言い方ではないか。
 蘭はコナンの差し出したタオルに身を包み、小さなくしゃみを一つした。
「風邪、引いちゃうよ? 蘭姉ちゃん……」
「うん……大丈夫。私、強いから」
  コナンの言葉に蘭は微笑みながらそう言葉を返し、自室へと向かって行った。上手く笑えなかったことに、少し後悔しながら。けれど後ろは決して振り返らず に。蘭には分かっていたのだ。コナンに心配をかけてしまっていることを。だから今もこうして、後ろにいるコナンの視線をはっきりと感じ、意識している。け れど、コナンのその優しさが今はただ切なかった。どうしようもなく弱気になっている自分を彼には知られたくなかったから。
 “強いから”
  蘭はいつしか自分にそう言い聞かせるようになっていた。身体的にも精神的にも。自分は“強いのだから”大丈夫なのだと……。その言葉は時に自分を奮い立た せ、時に自分自身をじわじわと苦しめた。本当は全然大丈夫ではなかった。強くなどなかった。けれど、こんな自分を知られたくなくて、こんな弱い自分を見せ てしまいたくなくて、心配かけたくなくて、蘭は何も言わない。いや、言えなくなってしまったのだ。
 じっとりと肌に染み付いた雨の小粒をタオルで 拭う。拭いながら視界が再びぼやけた。どうして自分は泣いている? そう自身に問いかけて、自嘲気味に笑う気力も蘭には残されてはいなかった。その理由を 探すことも、自分で確かめることも、強さを求める心がその問いかけを許さなかった。
 微かに香る雨の香りが胸を締め付け、新たな雫が床に小さな音を立てて、落ちた。蘭は、気付いて、気付かないふりをした。


「し、んいち……」
  翌朝。雨は止んではいなかった。蘭の頬には、涙の流れた“痕”がくっきりと残っていた。また夢を見た。もう何度同じ夢を見たのだろうか。そして自分は夢の 中の出来事を想ってどれだけの涙を流したのだろう。鏡を見て、苦笑した。今日ばかりは誤魔化せないのかもしれない。……目が、腫れてしまっていた。
 蘭にとって、涙は毒物であった。澄んだ目を腫らし、頬を濡らし、その跡をくっきりとそこに残す。……なかなか消えてはくれない。蘭は冷たい水を何度も顔に打ちつけながら、目の腫れを出来るだけ前髪で隠して台所へと向かった。
 耳を澄ませると聞こえてくる雨の音。次から次へと降ってきては澄んだこの空を霧で覆う。自分の心にもすっかり居座ってしまったこの雨。どこまでも自分を追い詰めるこの雨……。足音さえも雨の音で掻き消されて、そのことにまた少し悲しくなった。
 今日もまた新しい一日が始まる――雨は、止まない。


「蘭は、どうしたんだ?」
  夕方。小五郎はだらしなく机に足を投げ出しながらコナンにそう聞いてきた。空はどんよりと曇っており、バシャバシャと車が水溜りの上を走って水飛沫の上が る音が幾度と無く聞こえてくる。……雨は止んではいなかった。もうそろそろ蘭が帰ってきても良いはずの時間である。小五郎は最近の蘭の様子を心配して、そ のことも含めてコナンに聞いたのだった。
「最近、元気がないよね……蘭姉ちゃん」
「ああ」
「おじさん、何か心当たりとかないの……?」
「……何だぁ? 俺が原因なのかよ?」
「そうじゃなくてね……」
  二人同時にため息を吐いたのが互いに分かった。ここ数日、蘭は明らかに元気が無い。それは二人とも分かっている。しかし、何故そんなに元気が無いのか、そ の理由がどうしても分からなかった。それに今朝、蘭は目を腫らせて起きてきた。気付かれないように気付かれないようにと蘭は気を配っていたようだったが、 コナンには分かっていたのだ。敢えて、何も聞かなかっただけで……。コナンは小五郎の横顔を見た。小五郎はテレビを見ているようだったが、内容は全く頭の 中に入っていないようであった。もしかすると、小五郎も今朝の蘭の様子に気付いていたのかもしれない……とコナンは思う。
「コナン……」
 顔はテレビに向けたまま、小五郎はコナンを呼んだ。
「なあに? おじさん」
「蘭を……迎えに行ってこい」
  静かで落ち着いた声だった。コナンは小五郎を見上げる。小五郎はコナンに向き直ることなく、じっと前だけを見つめていた。小五郎は誰に向かってその言葉を 発したのだろう? そのあとに続けられた小五郎の言葉に、コナンは目を見開く。考えるよりも先に身体が動いた。コナンは傘を握り締め、事務所のドアを勢い よく開けて外へと駆け出していた。
 小五郎の言葉が、何度も頭の中で繰り返された。

『お前には分かるんだろ? 蘭がどこにいるか』

  今は夕方だというのに、このどんよりとした天気のせいか夕焼けを思わせる色は空には見られない。オレンジ色の温かな光は今日も降り注ぐことは無かった。け れど、今はそんなことどうでも良かった。雨が降っていようがいまいが、とにかく前に進みたかったのだ。スピードを上げれば、その分雨の雫が強く自分に打ち つける。何度もそれに邪魔されながら、何度も腕で視界を邪魔するそれを拭い、必死にコナンは前へ前へと走った。コナンの手には傘が握られていた。しかしコ ナンはそれを差さなかった。視界を遮るし、走るのには邪魔になる。ただただ力強くそれを握り締めて走った。その傘で、たった一人……彼女を守ることが出来 ればそれで良い。
 その場所に辿りついた時、コナンは息を切らし、服はすっかり雨でびしょ濡れになり、靴も靴下も、膝下は道路にまだらに散りばめ られていた水溜りのせいですっかり泥だらけになってしまっていた。それでも、そのことは全く気にもならない。コナンは、ハア……ハア……と息を吐きながら 呼吸を整える。水気を含んだ前髪が邪魔だった。乱雑にかき上げて前方を見やると、雨の粒で遮られていた視界がそれではっきりする。
 ――そこには確かに彼女がいた。傘も差さずに、びしょ濡れのまま。じっとその場に佇んでいる。かつて自分の住んでいた家の前で。毎朝、玄関先で何度もベルを鳴らして自分を待っていてくれた彼女は、その門の内に踏み込むことはなく、地面に視線を投げかけていた。
「夢を……見たの……」
 小さな声が、雨の音に混じって耳に送りこまれてきた。コナンはじっと蘭の横顔を見つめる。小さな蘭の告白は、散々と降り散る雨に消え入るように小さかった。
「……新一が遠くに行っちゃう夢……。手を伸ばしても届かない。声も聞こえない。新一が……新一が……」
  蘭は、毎晩夢に出てくる新一を思い出していた。新一はここで……ちょうど玄関のドアの前で倒れていた。苦しそうに息を吐き、まるでその場にある酸素を全て 体内に取り込もうとするかのように、荒々しく呼吸を繰り返していた。右手で胸の傷口を掴み取らんばかりに強く握り締め、左手は地面の土を握り締める。必死 に痛みに耐え、立ち上がろうとしていた。しかし真っ白なシャツは真っ赤に染まり、ドクドクと流れ出す血の飛沫は止まらない。どうしてこんなことになってい るのか蘭には分からなかった。駆け寄ろうとしても、身体が金縛りにあったかのように動かない。足を前に踏み出したつもりだったのに、固く地面にそれは張り 付いたままだった。彼の声が、地面を伝い、頭に突き抜けるように響いた。
『来るな……蘭……』
 なにもかも……全てを、拒まれた気がした。命の灯火は雨に消える。目を固く閉じた。そこで、いつも夢から覚めるのだ。
 蘭は目を閉じる。今あるこの現実さえも夢ならばいい。夢から覚めたら、空には太陽が輝き、心地良いベルの音が彼をここに呼び覚ましてくれるだろうからだ。でも、今ある現実は、今、目を開けばそこに広がる雨の中の世界だった。夢には決してなり得ない世界だ。
「……新一が……」
 それ以上は声にならなかった。口にすることさえもおそろしい言葉。声にすれば、夢のなかの沈黙がここまでやってきてしまうかもしれない。唇が震える。口を固く閉じた。
「蘭姉ちゃん」
 その声に、蘭は目を開いた。震える睫毛には、雨の雫。目を開こうにも、視界は霞んだ。ここはどこなのだろうか。夢か、現か。いや、現だ。意識が、降りしきる雨の中、鋭く澄んでゆく。
「新一兄ちゃんは、きっと、帰って来るから」
 コナンの声が、そっと自分を在るべき場所へと連れてきてくれる。視界は涙色。口付けた雫は、塩辛かった。
「そんなの、分からないよ」
 地上への階段のように。積み重なった雲に覆われていても、この空は……遠い。遠いからこそ、手も届かず、分からないことばかりだ。
「蘭姉ちゃん……?」
「だって、今、新一はここに居ないから……。何度呼んでも新一はここには居ないから……。もし、新一に何かあっても私は……私は……! 今のままじゃ、私は何も出来ない。新一の力になってあげられない。本当は、一緒に連れてって欲しかった……!」
 この胸の内の不安が、全て雨に流されてしまえばいい。雨が止めば、きっといつもの自分に戻れるから……。
「新一兄ちゃんは馬鹿だよね」
「コナン君……」
「新 一兄ちゃんは、蘭姉ちゃんを巻き込みたくなかったんだ。カッコ付けちゃってさ。結局はこんなに蘭姉ちゃんのこと悲しませて……。でも、大丈夫。新一兄ちゃ んは、蘭姉ちゃんのところへ必ず帰ってくるから。新一兄ちゃんは、蘭姉ちゃんに伝えたいことがあるんだ。だから……絶対に帰ってくる」
 自分を見 つめる子供の瞳は、強い光を持っていた。まっすぐな目で見つめられて、水溜りに雫が打ち付けたときのように、胸がはねる。こんな雨の降る日には、自分は不 安に押しつぶされそうになる。雨で視界が滲めば、前が見えない。未来が、見えない。空の果てが見えない。蘭は、おそるおそる空を見上げた。かすかに、雲の 切れ間から光が覗いていた。この力強い光を、信じたいと思った。今を信じて、未来を信じたい。そして、今、目の前にいる“彼”を誰よりも何よりも信じた い。
「僕を……信じてくれる?」
 コナンは傘を天に向かって差し出した。柄を握る手に力をこめた。この傘でただひとり、彼女を守ることができればそれでいい。もう二度と、彼女に雨は降らせない。コナンは誓った。
 蘭の瞳がすっと細められた。彼女に、小さな笑みが戻る。雨と混じって、涙が地に落ちた。
「うん」
 そっと、コナンの手に、蘭の手が重なった。



Fin