真っ直ぐな道 曲がりくねった道 水たまりのある道……
 たくさん たくさん 色んな 色んな 道がある
 これから先 どんな 道 が待ちかまえているのかは分からないけれど 
 こうして貴方と二人 いつまでもどこまでも――




Going our way





 ピンポーン……ピンポンピンポン……ピンポーン…………

 季節は夏。雲ひとつない青空が頭上に広がり、朝の鳥の鳴き声を遮るほどに蝉が鳴き始める時分。
 毛利蘭は、工藤邸の玄関の前で佇み、ベルを連打していた。
 学校のある日、毎朝新一の家へ迎えに行くのが習慣となっている蘭にとっては、今日は久しぶりの朝の訪問である。
 今日は登校日。夏休みとはいっても、受験生だからと課外の連続で休みらしい休みはほとんど無かったのだが、お盆休みも明けてしまった今日は、いつも通りの時間に学校へ行かなければならなかった。
 しかしベルが室内で鳴り響いていることは外からでも分かるのだけれど、彼が玄関にやって来る気配は全く無い。
 蘭は暫く腕時計と睨めっこしながらその場に佇んでいたが、ふと思い立って、自分のポケットの中から合鍵を取り出し、玄関のドアを開錠してから慌てて中へと入っていった。
「新一?!」
 靴を脱ぎ、彼――工藤新一の部屋へと向かいながら、蘭は彼の名前を一際大きな声で呼ぶ。けれど、返事はない。
「ちょっと……もしかして……」
 嫌な予感がして、蘭は足を速め新一の部屋へと急いだ。階段を駆け上がり、物音ひとつしない廊下を進む。そして部屋の前に到着してから、蘭は自分の予感が当たってしまったことに“やっぱり”と心の中で呟いた。
 新一の部屋のドアは開け放たれており、中の様子がよく見えた。部屋の片隅に置かれたベッドの上では新一がすやすやと寝入っている。新一は玄関のベルの音にも蘭の声にも気付かずに爆睡していたのだった。
「ちょっと……新一!」
 部屋に入る前に一度、新一を呼んではみたが、新一は起きそうにない。蘭は新一の寝ているベッドへと歩み寄った。
(このままじゃ、遅刻しちゃうよ……!)
 蘭は新一の体を揺する。広い背中が蘭の手の動きに合わせて左右に揺れた。
 すると新一の体が揺れる度に蘭の視界に何かがちらつき始めたので、蘭は気になりそれを手にとった。
 ……本だった。文庫本であるそれを表にかえすとその本の題名が目に入る。それは推理小説だった。しかもシリーズ物の。よくよく見れば、新一の体に下敷きになるかのようにして本が数冊散らばっているではないか。
 どれも同じシリーズ物の推理小説で、蘭はハァと溜息を吐いた。これは今まで新一の家には無かったものだ。蘭が初めて見るシリーズだった。そういえば……と、昨日、二人で本屋に立ち寄ったのを蘭は思い出した。
 その時新一が購入したのは確か文庫本となった推理小説だった。昨夜、一気に読んでしまったのだろうか。今日が登校日だということを忘れていたわけではないだろう。読み始めたらとまらなくなって結局全部読んでしまったのだということは容易に想像できた。
「新一! 起きて! ねぇ……新一!!」
 蘭は再び新一の体を揺すって彼を起こそうとする。今度は少し変化があった。新一の背中がぴくっと僅かに動いたのだ。
 それから寝返りを打つようにして新一は蘭の正面に向き直る。
 カーテンから覗く朝日が眩しいのか、新一は僅かに目を細めていた。
 朝の淡い光が新一にも降り注ぎ、蘭の瞳に映りこむ新一の表情はとても穏やかである。
 新一はというと蘭の姿を視界に捉えており、自身の手を彼女の頬へと伸ばしていた。
 これは彼の癖でもあった。彼女の表情を逃さず視界の内に留めておきたくて、こうして頬に手を添えては彼女の動きを封じるのだ。
 とろけるような視点の定まらない瞳で見つめられて、蘭の胸がドクンと大きく脈を打った。どうも新一の寝惚けた表情には弱い。起こすのが可哀想になってしまうほどに、彼の表情は子供のように愛らしいのだ。
 彼のそんな表情を見ていると、ついついそのまま寝かせてあげようかと思ってしまうこともしばしばある。けれど、今日はそうも言っていられないのだ。
 蘭は新一のシャツを握り締めた。
「……新一、本当に遅刻しちゃうよ……」
「……ああ」
 少し間を空けて返事はしたものの、新一はまた黙り込んでしまった。
 瞬きの回数が徐々に減ってゆく。段々と目を閉じている間の間隔が伸びてきている。……また再び夢の中へと誘われようとしているのだ。
 訪れた静寂。
 新一は起きそうにない。このままでは、新一に付き添っている自分を含め、本当に二人して遅刻してしまいそうだ。蘭は新一の布団を取り上げていつになく低い声で新一の耳元で囁いた。
 時間的にも蘭にとっても限界が近くなっていることを蘭の声音は意味している。
「……寝ているんですか? 新一さん」
 蘭のその声を聞いて、ガバッと新一は慌てて起き上がった。低く凄みを増した声は、蘭を本気で怒らせてしまったのだろうかと新一に感付かせるには十分だったようだ。
 新一の頭は寝癖でボサボサ。暑かったのだろうかシャツは胸元がはだけている。新一の慌て様と、新一のその姿に蘭は思わずくすっと笑ってしまった。
「……起きていますよ? 蘭さん」
 新一の声に、蘭は頬を緩める。今はもう怒る気もすっかり失せてしまった。
 こんな彼の姿を見ることができるのは自分だけ。そう思うと、蘭は幸せに浸ることができるのだ。こんな切羽詰ったひと時でも、この時間ごと愛しいと感じることができるから。
「じゃあ、早く支度してね。新一」
「ああ」
 蘭はくるりと方向転換して新一の部屋から出て行った。
 階段をひとつひとつ踏みしめながら下りていく途中、新一が引き出しから服を取り出したのだろう音や、顔を洗っているのか水の流れる音も聞こえてきた。生活の音は、確かに新一がここにいるのだということを蘭に教え、そして彼女を安心させた。背を向けても、新一は確かにそこにいる。
 長い間彼に会えなかったから、こうした些細なことでも蘭にとっては嬉しいことに違いなかった。
 蘭は階段を下りてすぐ台所へと向かい、冷蔵庫の中を見回して朝食に使えそうな物をいくつか手に取った。新一の準備が終わるまでに、とまな板や包丁を取り出して、冷蔵庫から取り出した物をテーブルに並べる。
 蘭が作ったのはサンドイッチだった。卵を茹でる時間はないから随分と手軽なものにはなってしまったけれど、朝食としては十分である。
 手早く調理と片付けを済ませてそれらをラップに包み、蘭は自分の鞄にそれらを崩れないようにして並べ入れた。
「蘭、行こうぜ」
 ちょうど蘭が鞄を持ったところで新一が台所に現れた。玄関に向かう新一を追うようにして蘭も小走りになる。
「ちょっと待ってろ」
 玄関の鍵をかけて、新一はそう言うと、裏庭の方へ走り出した。
 暫くすると、何かの車輪とアスファルトが擦れ合う音、チリンチリンと小高いベル音が聞こえてきた。蘭の目の前に新一と共に現れたのは、シルバーの輝きが目に眩しい自転車だった。
 ブレーキをかけて蘭の前でとまると、新一は蘭の鞄を受け取ってから、自分のものと一緒にカゴの中へ入れる。カゴの大きさはちょうど良い。蘭の作った新一の朝食となるサンドイッチもこれで型崩れすることはなさそうだ。
「乗れよ、蘭」新一は荷台を指しながらニッと得意気に笑った。「これなら、余裕で間に合うだろ?」
「う……うん」蘭は少々戸惑いながらも荷台に横座りして乗ることにした。確かに自転車で学校へ向かえば遅刻は免れそうだ。断る理由はない。ただ、少し恥ずかしいのだった。自転車に“二人乗り”という行為が……。
「しっかりつかまってろよ?」
 新一は蘭の両手をとると自身の腰にその手を回させた。そうしてペダルを大きく踏み込む。ゆっくりとスピードを上げながら自転車は走り始めた。工藤邸の門をこえると、新一は更にペダルをこぐスピードを上げる。
 蘭の瞳には流れる景色が映り、車輪の動きに合わせて砂塵が僅かに舞い上がった。
 風が頬を掠めた。蘭は目を細める。まだ八月の半ばである。流れる空気は湿気もこもり生温かかった。
 二人の乗った自転車は、朝露に濡れる道路の上を学校へと向かって走り始めたのだった。


「……でさ、犯人はこうして密室を作り出したんだ!」
「……ねぇ、新一。もしかして、昨日買った本の内容?」
 大通りに入って、道が少しずつ狭まり始めた頃。
 新一は時折後ろに乗っている蘭を見やりながら自分の読んだ推理小説の話をしていた。蘭はジト目で新一を見上げてしまう。話の内容からするに蘭が初めて聞くものだったから、きっと昨夜から読んでいた本の内容に違いない、とすぐに推察できたのだ。
 蘭は荷台に乗っているから新一よりいくらか目線は低いところにある。蘭が見上げるとちょうど新一と目が合う高さだ。蘭があまりにもジーッと見つめるからか、新一はどうも落ち着きがない。
 新一はちらりと蘭を横目で見ながらポリポリと頭を掻いた。
「ま、まあな」
「もう!」
 今度は蘭の頬が僅かに膨れる。
 その表情は明らかに、「遅くまでその本を読んでたんでしょ?」「だから寝坊したのよ!」と語っていた。
 本気で怒っているわけではない。けれど文句の一言や二言くらいは許されるだろう。実際、口に出しては言わなかったけれど、新一には蘭が言わんとしていることが分かったらしく、腰に回された蘭のその手に自分の右手を重ねながら言った。
「ああ、分かったよ。今度からは、“出来る限り”早く寝るようにすっから」
「……。出来る限り、ね」
 どうも言葉に引っ掛かりがあるが、これ以上問いつめるのは止めにする。
 何かに熱中している時の新一は、時間、場所さえも忘れてそれらに没頭することがよくあった。今はこうして反省していてもいずれは……と思ってしまう。しかし、彼のそんなところも蘭はどうにも憎めなかった。というよりむしろ、愛しいと思う。一生懸命自分の好きなことに打ち込む姿は、幾つになっても変わらないから特に。
 自らの思考をそこで止めて蘭が前方を見やると、大きな水溜りがあった。そういえば、昨日は雨が降っていたなと思い返す。しかし新一はその水溜りに気付いていないのかそのまま直進する勢いだ。
「新一、水溜り!」
 蘭がそう小さく叫ぶと、新一はやっと水溜りに気付いたようだった。新一はすぐにハンドルをきろうとしたが、片手運転していたのもあってか僅かにふらついた。更にハンドルを慌ててきったものだから前輪が急に方向転換を始め、その影響は後輪に大きくかかってしまう。荷台もぐらりと左右に揺れて、蘭は新一の腰に回していた手で新一のシャツをぎゅっと握り締めた。
 そうすることで、なんとか荷台から振り落とされずに済んだ。寸でのところで水溜りを避けて元の体勢に戻ると、再びスピードを上げながら、新一は蘭を振り返りつつ、くくっと喉で笑った。
「な……何?」
「いや、可愛いなーって思ってよ」
 新一は蘭の手をちらっと見やる。蘭はぎゅっと新一のシャツを掴んだままだ。
 新一の視線の先に気がついて蘭はぱっとその手を放した。頬には朱が差し、新一の視線から逃れるように目を逸らしている。そのことに気付いて、新一が今度はワザとハンドルを左右にきると、蘭はまた慌てて新一のシャツを握り締めた。
 突然のことだったから新一の策略にまんまと引っかかってしまったのだ。
「ほら、可愛いじゃねーか」
「……っ!」
 蘭が頬を真っ赤に染めたままそっぽを向くと、新一は蘭のその可愛らしい様子に微笑んだ。
 暫くすると、蘭の手がまた再び新一の腰に回される。新一はどうしようもなく嬉しかった。蘭が自分を頼ってくれてるように思えるからだ。実際、蘭がぎゅっとシャツを握り締めた時も、同じような心情が新一の心の内にあった。
 なかなか人に甘えようとしない蘭だからこそ、自分には甘えて欲しい。自分を頼って伸ばされた手が、どうしようもなく愛しいのだ。
 蘭はというと、手は新一の腰に回したまま、目線は随分と下にある。頬の赤みが消えるまで、暫くはそうしていたいようだった。

 いつの間にか帝丹高校まであと半分もない地点へとやってきていた。この傾斜の激しい坂の存在が二人にそれを教えてくれていた。
 あともう少し……。腕時計をみると、時間的にもまだ余裕がありそうだ。自転車に乗ってきたのは正解だったと二人は思う。
 勾配の急な坂にさしかかったところで、蘭は突然荷台から飛び降りた。
「蘭?」
 荷台に座っているはずの蘭の重みがそこから消えたことに首を傾げながら新一が後ろを振り向くと、蘭は荷台に両手を添えている。それから蘭は荷台を両手で押し始めた。そうすることでペダルをこぐ力も軽減し、随分と楽に坂を上ることができる。
「一度、やってみたかったの」
 蘭がにこっと新一に微笑んだ。
 朝の太陽の光が彼らに降り注いでいることもあって、蘭の笑顔もとても眩しく新一の瞳に映し出される。蘭の背後には雲ひとつない青空が広がり、辺りでは蝉が止むことなく鳴き続け、昨日雨が降ったこともあってか草花は露を含んできらきらと輝いていた。
 坂を上る間、新一と蘭はひまわりの花を見つけた。ひまわりは確かに太陽の方向を向いてその花を開かせていた。太陽に向かって動くというひまわりの茎はとても力強そうにも見える。露がその茎を流れては葉の間に溜まりを作った。
 季節は夏である。
 しかしこうして夏を感じることは、夏、といわれる季節の間どれくらいあるのだろう。
 二人にとっては今がその時なのかもしれない。けれどそれは夏だけに限ったことではなかった。
 秋は学校帰りにイチョウの木を発見しては落ち葉をかき集め、冬には凍えるほどの寒さに互いの温もりを求めて手を繋ぎ合う。春には桜の木の前で暫し時間を忘れて佇み、地面に弧を描いて降ってきた桜の花びらを手にとるのだ。
 二人はこうして、何度も季節を繰り返しながら一緒に歩んできた。これから先もきっと変わらない。新一の隣には蘭がいて、蘭の隣には新一がいるのだ。喧嘩をすることもあるだろう。しかし互いが互いを支えあって生きている。
 季節は変わる。二人も歳をとるにつれて変わってゆく。けれど変わらないことも確かにある。
 この急勾配の坂道を二人で一緒に上ってゆくように。これから先もずっと……。

 ペダルをこぐのがだいぶ楽になって、新一は後ろをもう一度振り返った。
「蘭、乗っても大丈夫だぞ?」
「うん。坂を上りきるまで。……ね?」
 蘭はこの状況を楽しんでいるようだ。一歩一歩坂道を踏みしめ、荷台に力をこめる。自転車は坂道を進み、そうして坂を上りきった。
 新一が一度ブレーキをかけると、それを合図に蘭が再び荷台に横座りして乗る。蘭が新一の腰に手を回そうか躊躇っていると、
「今度は下りなんだからな。しっかり掴まってろよ!」
 新一がそう言うので、蘭はぎゅっと新一に掴まった。新一は大きくペダルを踏み込んだ。
 自転車が坂を下ろうとしている。風が二人の前髪を舞い上げ、蘭の長い髪は後ろへ流れるように揺れた。坂は思った以上に急だった。いつもは徒歩で通うこの道も、こうして自転車できてみれば意外なことが発見できたりする。
 蘭はぎゅっと新一の背中に抱きついた。新一の背中は広くそして逞しい。その背中を抱きしめると、とても安心した。
 全身に風が当たり、ジェットコースターのようなスリルを全身で感じる。
 蘭はぎゅっと目を閉じた。そうするとよりいっそう新一を近くに感じることができた。
 太陽は眩しく光り輝き、車輪がその光に反射している。きらきらとシルバーに輝く自転車は坂を下りてゆく。
 坂を下りると、目的地は目の前だ。緩やかなカーブを描く道の先には“帝丹高校”がある。

 学校に近付いたためだろう。帝丹高校の学生が校門に向かって走ってゆく姿を多く見かけるようになった。校門に近付くほど、生徒の歩くスピードが落ち、友達と談笑しながら悠々と歩いている者もちらほら見られる。
 新一と蘭が自転車で二人乗りしたまま校門へと向かっていると、やはりというか、あちこちから声がかかった。
「あ! 工藤君と蘭ちゃん!」
「今日も夫婦で仲良くご登校ですかー!」
「工藤! 二人乗りなんて青春してるなあーー!!」
「見てみて! 工藤君と毛利さんよ!!」
「朝から熱いんだよ君たち!」
「暑い! 熱い!」
 その声の主は、クラスメートだったり、二人をよく知る者だったり、騒ぎ好きな連中だったり、……そして、教師だったり。
「工藤! 毛利! 二人乗りはいかんぞーー!! 今日だけだぞーー!!」
 生徒指導の教師がそう言いながらも微笑んでいたのは、自らの青春時代と重ね合わせていたからなのかもしれなかった。
 こうして自転車に二人乗りして高校へと向かうことはこれから先殆どなくなってしまうだろう。
 今、新一と蘭は受験生である。高校生活もあと残りわずか。もう二度と繰り返すことの出来ない光り輝く青春の季節。
 季節を繰り返し、年を重ねてゆく。それが時の流れというものだ。
 けれど、いつまでも変わらず隣にいて欲しい人がいる。

 蘭はぎゅっと新一の背中を抱きしめた。新一は後ろを振り返りながら蘭に向かって微笑む。
 校門を通り越えたら、この一時は終わってしまうだろう。
 しかし、これから先に続く終わりなき道を、こうして一緒に歩んで生きたいと二人は思う。
 自転車を下りれば、二人仲良く手を繋ぎ、教室へ向かって走り出すように……。
 終わりのない、連続した道を――



 今まで たくさん たくさん 色んな 色んな 道 があった
 笑って 泣いて 怒って 喧嘩もしたね
 これから先 未来 へと続いてゆく この 道 が
 どんなものになるのかは分からないけれど
 今までも そして これからも
 貴方と二人 ずっと いつまでもどこまでも この “道” を――



FIN